聴覚は、動物にとって不可欠な感覚です。我国の難聴患者は数百万人以上であり、高齢化社会を迎える近未来において、その数の増加は必至です。我々は、難聴の病因を理解し、新たな治療法を開発するために、内耳蝸牛の基礎研究を行っています。方法として、分子生物学的・組織学的・生化学的・電気生理学的研究手法や、時には計算科学的方法など、多彩な手法を駆使しています。そして、現在は、理工系の研究者と共に、新しい測定系を創造するための準備を進めています。
聴覚は、動物にとって不可欠な感覚です。我国の難聴患者は数百万人以上であり、高齢化社会を迎える近未来において、その数の増加は必至です。我々は、難聴の病因を理解し、新たな治療法を開発するために、内耳蝸牛の基礎研究を行っています。方法として、分子生物学的・組織学的・生化学的・電気生理学的研究手法や、時には計算科学的方法など、多彩な手法を駆使しています。そして、現在は、理工系の研究者と共に、新しい測定系を創造するための準備を進めています。
内耳聴覚研究は、元耳鼻科医である奇才 任 書晃と、工学博士の緒方 元気、大学院生の吉田 崇正・上塚 学(他大学から出向)、そして教室主任の日比野 浩が主に行っています。以下に、研究内容などをご紹介いたします。
図2 蝸牛の断面図
有毛細胞を興奮させたK+は、血管条を介して、
内リンパ液と外リンパ液の間を循環する。
我々は、内リンパ液高電位の成立機構に興味を持ち、長年、研究してきました。最近、以下にご紹介するようにその主たるメカニズムを解くことができましたが、まだ、不明な点もあり、今後、その解明を一つの目的としていきます。
外界からの音は、外耳、中耳を通り、内耳蝸牛(図1)に到達します。蝸牛は3つの管腔により構成されています(図2)。その中で、上下の2つの管には、通常の細胞外液と同じイオン組成(150 mM Na+, 5 mM K+)を示す外リンパ液が入っています。しかし中央階と呼ばれる真ん中の管腔は、細胞外液であるにも関わらず、150 mMの高濃度のK+を含む「内リンパ液」で満たされています(図2)。また、外リンパ液や他の体液を基準とすると、+80 mVの高電位を測定することができます(図2)。これらの電位・イオン環境は、ほ乳類では蝸牛にのみ観察されるものです。音の一次受容器である有毛細胞(図2, 3)は、感覚毛が分布する頂上膜のみを内リンパ液に浸しており、細胞体を外リンパ液に接しています。音が蝸牛に伝わると、まず、「基底膜」と呼ばれる膜が上下動します。次に、有毛細胞の感覚毛が屈曲し、感覚毛の頂部に分布する陽イオンチャネルが開口します。チャネルを通じて内リンパ液のK+が細胞内に流入することで、細胞が電気的に興奮します(図3)。すなわち、蝸牛は、K+によってシグナル系が進む珍しい器官なのです。内リンパ液の高電位(+80 mV)は、-60 mVである有毛細胞との間に大きな電位差を産生することで、K+流入の加速を達成しているのです (図3)。これは、小さな音に対する聴覚の高い感受性をささえる仕組みの一つであり、高電位が失われると難聴になることが動物実験で示されています。よって、内リンパ液の高電位と高K+は聴覚に必須の要素と言えます。内リンパ液の研究は、当教室の柱となっています。
図1 内耳蝸牛の模式図
図の如く縦切りにすると、蝸牛の断面図(図2)となる
図3 有毛細胞
有毛細胞は、感覚毛を有する頂上膜のみを内リンパ液に接する。音刺激により、主に内リンパ液のK+が細胞に流入する。
1. 内耳における音伝達の仕組み
2. 内リンパ高電位の研究
以前より、内リンパ液高電位の成立には、上皮組織「血管条」が中心的役割を果たし、更に、血管条を介した内リンパ液 — 外リンパ液間の「K+循環」が深く関わると示唆されてきました(図2, 4)。しかし、高電位の成立機構は、その最初の測定から半世紀以上経過した最近まで、殆ど不明でした。我々は、まず、K+チャネルの一つであるKir4.1が、血管条に強く発現し、内リンパ液高電位の成立に必須の分子であることを、種々の手法によって同定しました(Hibino et al., J Neurosci, 1997)。後に、他のグループによりKir4.1は、以下に示す中間細胞の頂上膜に局在することが報告されました (図4)。
血管条は、辺縁細胞・中間細胞・基底細胞の3種の細胞と、毛細血管から成ります(図4)。辺縁細胞は1層の上皮細胞層を構成し、中間・基底細胞は、 ギャップ結合によってその外側にある螺旋靭帯の線維細胞と一体化しています。従って血管条は、 内層(辺縁細胞)と外層(中間・基底・線維細胞)の2層の上皮系細胞層から構成されていると考えられます(図4)。内・外二層には、同じように、
図4 血管条とその輸送分子
NKCC, Na+,K+,2Cl-共輸送体; IS, Intrastrial space; TJ, Tight junction
頂上膜にK+ チャネル(内層はKCNQ1/KCNE1チャネル)、基底側膜にはK+取込み輸送体(Na+,K+-ATPaseとNa+,K+,2Cl-共輸送体)が分布しています。血管条内部の細胞外空間は、幅が15 nmと非常に狭く、Intrastrial space (IS)と呼ばれます。ISを満たす細胞外液は、低K+濃度と+90 mVの高電位 (IS電位) を示すことが報告され、後者が内リンパ液の高電位に重要であることが予想されていましたが(図4)、これらISの環境と内リンパ液高電位との関連の詳細は不明でした。近年の申請者らの研究により、ⓐISの高電位が内リンパ液高電位の主要素であること、ⓑ外層の頂上膜を介した細胞内外のK+濃度勾配を活用してKir4.1がK+拡散電位と呼ばれる膜電位(平衡電位)を大きく発生し、それがISの高電位の主体であること、ⓒ通常は少ない内層の頂上膜を介したK+濃度勾配が、条件によっては拡大し、K+チャネルIKSが発生するK+拡散電位も増大して内リンパ液の電位に貢献すること、が明らかになりました(Nin et al., PNAS 2008; 図3)。即ち、内リンパ液高電位は、血管条の2つのK+拡散電位の和といえます (Nin et al., PNAS 2008)。これらの知見は、蝸牛にK+選択的イオン電極を挿入し、血管条の各微小区分や内リンパ液の電位・イオン動態を種々の条件下で同時測定する電気生理実験で主に得られ、長年に渡り不明であった高電位の成立機構をほぼ解明するものとして、2つの総説依頼を介して世界的に高く評価され (Hibino and Kurachi, Physiology 2006; Hibino et al., Pflügers Arch 2009)、国内では新聞報道も行われました (平成20年1月, 京都新聞、中部経済新聞、高知新聞など)。また、最近、内リンパ液高電位の成立機序の数理モデル化を行いました(Nin et al., PNAS 2012)。コンピューターシミュレーションによって、蝸牛のK+循環が、血管条のK+濃度を調節し、ひいては内リンパ液の高電位の維持に深く関わることが明らかになりました。
3. 今後の研究の展開
内耳蝸牛は、骨に囲まれた小さな器官なので、非常に難しい研究対象です。しかも、内リンパ液は内耳研究の中でもマイナーで、研究者人口は稀少です。しかし、だからこそ、我々は蝸牛の内リンパ液を研究することに誇りを持っています。内耳性難聴の多くは原因不明ですが、内リンパ液環境の破綻が病因となっている例も結構あるはずです。事実、内層(辺縁細胞)の頂上膜のK+チャネルKCNQ1/KCNE1の遺伝子変異により、家族性の難聴が惹起されることも報告されています。従って、我々と一緒に研究して、「新しい内耳聴覚研究」という領域を作ってやろう!と意気込む方は大歓迎です。
また、上記の研究紹介を読んで気づかれた方もあると存じますが、分子と器官機能の関係に興味がある人も楽しめると思います。生命現象は、全て分子の役割に立脚します。我々は、器官生理を研究する中で、常に「分子機能」を念頭に置きます。しかし、分子だけでは器官機能は見えてきませんので、常に、その上層にある細胞・組織・臓器を統合的に考えることが必要です。「病気に興味があって、患者さんの役に立ちたい」人も歓迎です。教室主任の日比野や助教の任は、元々耳鼻咽喉科医ですので、臨床の先生方とも連携して、患者さんに貢献できるような研究を目指していきます。ただ、これには相当時間がかかりますので、じっくり進めていこうと思っています。更に、「誰もやっていない研究をしてみたい」人にはうってつけです。上述しましたが、内リンパ液を主に取り扱っている研究者は世界でも数少ないです。「ナンバーワンよりオンリーワン」は、我々が目指す処ですし、それに共感して頂ける方と一緒に仕事できれば、相乗効果でよい成果が挙ると考えています。内リンパ液環境は、上皮組織である血管条を中心として成立しています。よって、我々の内耳研究で得られた知見は、腎臓・消化管・呼吸器などの上皮系組織や、中枢神経系の上皮細胞の生理機能・病態の理解にも貢献する可能性があります。また、内耳蝸牛と他の臓器に共通して発現している蛋白質も幾つかありますので、研究が思わぬ方向へ発展することも出てくるでしょう。上述したK+チャネルKCNQ1/KCNE1は、心臓にも発現しますので、その遺伝子変異を持つ患者様は、難聴と心臓不整脈も観察されますので、その研究によって、両方の器官の理解が深まったという事例もあります。加えて、理工系の知識や技術を持つ方にも、とても興味をもって頂けるのではないでしょうか。内耳は波や振動を扱いますので、理工系分野と共通言語がとても多いのです。また、任が中心となってオンリーワンの測定系を作ることも計画していますので、理工系のバックグラウンドの方にも楽しんでもらえると思います。
この他に、我々の教室で、「こんな事がやってみたい」とお思いの方は、気軽にご相談ください。不可能な事も当然ありますが、出来るだけ前向きに考えます。それでは、内耳聴覚研究を宜しくお願いいたします。何かご質問があれば、ご遠慮なく、ご連絡、ご訪問ください。
こんな人が我々の研究に向いているのでは?
内リンパ液高電位の成立機構については、一見、理解できたようにお思いになられる方もおられるでしょうが、血管条の各細胞のイオン・電気環境がどのように制御されているか、内リンパ液環境を色々な条件下で制御する未知の分子は存在するか、などの極めて重要な不明点は多く残っています。それらの疑問点を、分子生物学・組織学・生化学・電気生理学などの多彩な手法で解いていくつもりです。また、蝸牛のK+循環と内リンパ液環境の成立との有機的な関係の理解も、いまだ不十分です。この課題については、数理モデルも加えて用いようとしております。
内リンパ液には、他にも興味深い特徴が幾つかあります。この溶液は、高濃度のK+を含むと同時に、実は生体の細胞外液の中で最も低いCa2+濃度を示します。Ca2+濃度は、種によって違いますが、例えばほ乳類では約20 µMであり、これが絶妙な濃度で、多くても少なくても有毛細胞の働きは障害されます。このように蝸牛機能に重要なK+やCa2+の濃度を調節し、維持する機構やその分子基盤は十分に分かっていません。また、内リンパ液の粘性は比較的高いと考えられていますが、いまだ未測定ですし、この物性の生理的意義は謎のままです。このような不思議な内リンパ液の性質が、その体液が接する基底膜や有毛細胞の感覚毛の運動に深く関わることは想像に難くありません。この課題には、当教室の任 書晃が中心となって、新しい計測装置を開発しつつ取り組んで行く予定にしています。このように独自の視点から蝸牛機能を理解していくと共に、病因不明の難聴の発症機序の解明や、新しい治療法・薬剤の効率的な開発を目指して研究を進めていきます。