新潟大学大学院医歯学総合研究科 消化器内科学分野-旧内科学第三講座-

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留学だより

エジンバラ留学記 1(2011年08月21日~2011年12月16日)

2011年08月21日

無事着きました。皆さんお変わりありませんか。ご迷惑をかけすみません。特に肝臓班に。

こちらの生活は暴動などどこ吹く風で平和です。ネットが使えなかったので暴動のおきていた事すら数日後バスにあったフリーペパーで知りました。荷物が届くまでの数日間は大変でした。4日目に携帯をゲットし、10日後に航空便が届き、12日に船便が届き、18日に家にネットが開通し、子供は小学校に溶け込み始め、嫁も日本人学校補習校を通じて近所に知り合いを作りようやく研究が開始出来る体制が出来てきました。

家も確実に進化してきており快適です。日本食、調味料も一通りそろいますし、ご飯も日本~仕入れたイギリス電圧対応の炊飯器が活躍して食事でもストレスを感じなくなりました。ショッピングセンターもすぐそばで小学校も目のまえで生活も非常に便利です。何とかいい準備が出来たと思います。ボスの夏休みが明ける来週、私の仕事もはじまります。なかなか大変でしたが休みが長かった分かえっていい準備が出来ました。

エジンバラは10時前まで明るく、猛暑もありません。朝は10度を割る事もあり寒いくらいです。それでは。

2011年09月10日

その1;~留学までの道のり~

留学記は自分にとっても経験を書き残すチャンスですし、また後輩のみなさんの留学の少しでも助けになればと思いこれから書いていきます。
 
まず、初めに私が留学をしようと思ったのは、約2年半ほど前だったでしょうか。京大の国内留学から帰ってきて新潟で実験を開始しましたが、臨床と研究を両立させるのに正直時間的にも制約がありましたし、自分の実験の中に多くの肝障害モデル動物、解析に必要な器具等を多くもっていない希薄さを感じていました。そして、身近に肝再生の実験をしている人が多くなく、少し自分の実験に閉塞感を感じていました。しかし、いろいろな研究室や論文をネットで探しはじめました。この時点ではいいところがあったら行こうとは思っていましたが、金銭的負担、家族の生活もろもろ考えると新潟にずっといるのも悪くないと思う気持ちもありました。

そんなある日、検索に引っかかってきたのが今行っているイギリスのエジンバラにある研究室です。肝臓組織幹細胞に注目した研究テーマでまさに自分の研究分野に一致していました。多くの実験系を持っていることも過去の論文からわかりました。行くならここにしようと決めました。教授、医局長に相談したところ、快くOKの返事をいただきました。行くのは現在やっている仕事が落ち着く2年後くらいと決めました。CVを書き、今までのpaperをまとめ、e-mailと郵送で送る準備をしました。まずは全くの門前払いを食うかもしれないので、メールで
「私はこんなもので、こんな仕事をして来たのだけれども、そちらでポスドクとして研究を行うことができるか。可能性があるならばCV等郵送で送ります」
との旨のメールを送りました。メールをだして安心してトイレに行き戻ってくるともう返事が返ってきていました。
「君はうちの研究室にフィットしたことをしている。給料は出せないと思うが、それで問題なければ支障はない。CV等を送ってくれ。」
とのものでした。給料のところはやはりそうかという気がしましたが道が開けたので、実現のために今度は何をするのか考えました。私は3人家族(一年後に4人家族に)だったのでお金が必要になることは明白でした。

我が家に二年間の倹約令が敢行されました。二年間で帰省以外の大きな家族旅行は避けました。大好きな温泉も『湯ったり苑』で我慢しました。続いて、いくつかの病院に当直などでお世話になりました。最後に競争的資金として、2年間の返済義務のない留学生のための奨学金を幸運にも二年間いただけることになりました。子供もできればもう一人ほしいと思っていました。異国の地で生むのは抵抗があったので二年間のうちにほしいと思っていました。6年間できなかった二人目がこのとき出発の一年前に生まれました。多くの方の協力と幸運にも恵まれ、何とか厳しいといわれるイギリスのVISA取得にも無事パスし、留学に出発する日を迎えることができました。出発までの日々も織り交ぜ、今後書いていきます。

平成23年8月1日、親の住む富山を経由したのち父親も手伝いでついてきてくれて、羽田空港からロンドンに向け出発しました。ロンドン、ヒースロー空港は大きな空港でした。いくつかの関門を無事通過し、その後、親のおかげで空港のラウンジでのどかな休息と食事をとることができました。出発30分前エレベーターに乗り搭乗口に行く途中、ガタンという大きな音とともにエレベーターに閉じ込められました。SOSのボタンを押しまくりました。2分ほどしてようやく開いて無事搭乗口に行きました。閉じ込められている間は、飛行機に遅れることが頭によぎったいやな時間でした。それ以降、イギリスのエレベーターはどうも信用していません。

1時間後ロンドンから無事エジンバラに夕方到着し、空港で不動産屋に電話し、タクシーで不動産屋に行きカギを受け取り、新しい我が家へ向かうのでした。 (平成23年9月9日)

2011年09月19日

その2;~エジンバラ到着~

夕方4時過ぎ、羽田から約18時間とうとう、エジンバラに到着しました。子供たちは飛行機の中で非常にいい子で旅自体はとても楽に感じました。長男は映画『Rango』を二回見てげらげら笑っていました。しかし、旅はまだここで終わりではありませんでした。30%オフという看板につられ、空港カウンターで、持参した大型海外旅行バッグが3個入るタクシーを頼み不動産屋にまず向かいました。タクシーの運転手は当然のごとく私服で、腕にはtatooがある腕っぷしのいいお兄さんで、おそらく自分の好きなハードロックをお構いなしにかけ、鼻歌交じりに運転していました。見渡したところメーターのようなものもなく(後でわかったのですが自分の後方にあったのでわからなかった。)『ぼったくられる?』一抹の不安を抱えながら私は助手席に乗り込み、まず不動産屋に行きました。エジンバラには今年の4月、留学の4か月前に一度訪問し、2回目でした。家はその時決めたものでした。

サンコンさんに似ている黒人の不動産従業員がよく来たと迎えてくれました。カギを受け取りそのまま再び待たせておいたタクシーに乗り込み、とうとう家に到着しました。
『20.5ポンド(2600円くらい)。』
思っていたより安かった!乗った感覚では新潟大学病院から五十嵐のキャンパスぐらいまで乗った感じでした。30%オフの看板に偽りがないことを確認でき、得した気分になりました。しかし、長男が旅の疲れから深い眠りにはいっていました。起こすと前の座席をけるような感じで駄々をこね、ようやく降りることができました。父が気前よく『タクシー代は私が出そう』といってチップを含めて25ポンド払うとドライバーは上機嫌に重い荷物を家の建物の前まで運んでくれました。

家は築10年くらいでしょうか、4階建ての日本でいうマンションの3階でした。エジンバラには築うん十年はおろか百年単位のものもあると聞くので我が家は相当の新築物件といってもいいのでしょう。マンションの周りは芝生がきれいに管理されており、イギリスの家にきたと実感しました。
しかし、中は覚悟していたものの汚かった。Full furnishedと書いてあったのだが。。。確かにある、洗濯機、冷蔵庫、テーブル、ソファー、ベット、掃除機そしてのちに壊れていることがわかった電子レンジ。どれもそれなりにねんきが入っていました。不動産屋が『家具は古いので全部新調しますからね』という言葉は守られていなかったようです。一つだけ新しい家具がありましたがそれは小さい炬燵をさらに小さくしたくらいの大きさの非常に軽いコーヒーテーブルだけでした。(のちにこのテーブルはIKEAで7.5ポンド(1000円しない)で売られているのを発見しました。)
洗濯機の洗剤の投入口はカビがすごいことになっていました。『カーペットや床がねんきが入っているので、赤ん坊がいるから取り替えることはできるか?』と不動産屋に新潟にいるとき聞きましたが、『掃除のプロがspecialな対応をするから大丈夫!ご安心を!』との返事をもらっていたもののこれがプロ?という状態だった。掃除しに来た人も靴を履いて掃除したのでは意味がない。。。という気がしました。
到着した日は一泊ホテルに泊まることにしていたので、大型の荷物から必要物品だけ持ち出し、明日の大掃除を覚悟して我が家からホテルへ向かいました。家を出るころ、もう夜6時を過ぎていたでしょうか?しかし外はまだ日本の昼3時くらいの明るさでした。真夏の猛暑の日本から来てそのまま半袖だったのでこの時の20度前後の気温は少し肌寒い感じでした。二階建てバス(エジンバラのバスはほとんど二階建て)に乗り込み、市の中心部にあるホリデイインホテルに行きました。到着するなり、長男は疲れから風呂も入らずベットに寝てしまうのでした。私もシャワーを浴び布団につくなり、瞬く間に睡眠に入ったのでした。

家の前の通り、エジンバラのバスはほとんど二階建て 家の前の通り、エジンバラのバスはほとんど二階建て バスの二階の最前列からの眺めは非常にいいですバスの二階の最前列からの眺めは非常にいいです

2011年09月28日

その3;~荷物が来るまで~

8月2日、ホテルでエジンバラでの初めての朝を迎えました。エジンバラの空は、昨日の快晴とはうって変わってどんよりした曇り空で、小雨が降っており、イギリス、エジンバラの気候の洗礼を受けている気がしました。朝食を済ませ、チェックアウトし肌寒い空のもと、家に再びバスで向かいました。

家に帰るなり、電気、ガス、水道などが使えるか確かめました。しかし、ガスがいくらやってもつきません。しかし、家には携帯もなければ電話もない状態でした。まず歩いて5分ほどのところにあるショッピングセンターへいきました。決して大きいとは言えないショッピングセンターですが、日常品を買うには十分な施設です。ちょうど新潟でいえば映画館のない『デッキー401』位の大きさの施設で、中にはいくつかのショップと『Sainsbury's 』というこちらではメジャーなスーパーが入っています。日本の100円ショップに相当する1ポンドショップも中に入っています。Sainsbury's はちょうどジャスコにあるくらいの大きさの食料品部門に加え、電化製品、洋服、鍋、布団、等の日常品も買える非常に便利なスーパーです。

まず、公衆電話で、不動産屋の携帯に電話してガスをどう使うのか聞こうとしました。50ペンスを何枚か用意して電話を掛けると、「私はAstunori Tsuchiya」だけれどもと話す。私が誰だか認識できず「おたくは。。。。」と向こうが話始めたところで50ペンス分の電話が終了してしまいました。もう一回、「どこどこに住んでいる土屋だけども」と伝えるとようやくわかってもらえ「家はどうだ。。。」となどと話始めたところで再び時間が来てしまった。この時点ですでに小銭がなくなってしまい、途方に暮れていると、公衆電話であったが、電話のベルが鳴る音がして、向こうからかかってきて救われました。ならば最初からお願いすればよかったと思いながらも会話をつづけ家のガスの状態を見てほしい旨告げた。家のチェックもしなくちゃならないから今日午後行くよと来てくれる約束を取り付けようやく電話は終了しました。

Sainsbury's で鍋、布団、食料品、風呂関連、掃除道具などを一通り買い、ショッピングセンターのフードコートで昼食を済ませ、家に帰りさっそく掃除をはじめました。予想はしていたものの雑巾は瞬く間に黒ずみ、床は雑巾がけを何回かした後さらに除菌シートでふき取りをしました。絨毯は掃除機をかけファブリーズをすることを繰り返しました。午後になり、不動産屋が家を見に来ました。ガスのつけ方はいわゆる元栓が日本の位置とはかなり違うためにつかなかっただけで、たちどころに解決しました。一通り絨毯がおかしいところ、鏡が壊れかけているところ、扉がへこんでいるところなどをチェックしたのち「今後、インターネットや研究をするためにデスク、椅子を用意します。また、ベットも客人が来たときのものがないでしょうから用意します。」とのコメントをもらいました。しかしこれらはいまだに家に到着していません。。。(何度か問い合わせようやく最近机は購入したとの連絡が来ました。)

携帯電話は日本にいるときにすでに頼んでいました。8月3-4日にくる予定で頼みました。(ハナセルという会社で通話は受ける場合は無料、かけるときも良心的な値段でかけられ、話した分だけ請求されるというものです。ネットは有料ですが使わなければ金がかからず、Wi-Fiスペースに行けば無料でインターネットが使えるという電話会社の携帯を頼みました。基本料金は月額4.95ポンド(600円くらい)で使わなければ、基本料金の通話代が繰り越されるというものです。かなり格安だったので不安もありましたが、最初のひと月、かなり事務手続きなどで使ったのですが夫婦二人で4000円行かないくらいで、かなり安く感じました。これからこれ以上かかることはないと思います。)

ついてから掃除をひたすらしたものの、何か足りない感じがしました。家にはもちろん日本から6月1日に船便で送った荷物や、7月31日に富山から送った航空便がついていなかったこともあります。しかし、最も足りないと感じたのは情報です。普段は、テレビもありネットもあり、メールもし、新聞も読み、携帯で電話し、メールし、そんな知らず知らずのうちにあふれんばかりの情報の中に身を置いていたのが、急に何もない環境に置かれると非常に物足りなく感じました。8月4日いよいよ携帯が来ました。携帯が来たことがなんとうれしかったことか。こんなに簡単にどこでも電話がかけられる喜びを実感しました。さっそく引っ越し業者に連絡したところ、航空便は10日に船便は12日につくことが決まりました。船便はロンドンにいち早くついていたのですが、私が入国するまでは荷物は通過できないことになっているようです。荷物のつくまでの間は我が家のトランク二つ、と親の持って来たトランク合わせて三つとこちらで買ったものでの生活でした。6日親が帰ると、物不足の家の中は一段とさびしくなりました。家族4人での生活が始まることを実感しました。

携帯が来たことで、申し込みの電話欄が書けるようになったので、次は銀行口座を開設することにしました。イギリスでは銀行口座はなかなか開けない、スコットランドの地元の銀行では特にそうということをよく聞いていたので、準備を完璧にしたつもりで出かけました。銀行は近くのショッピングセンターにあるLloyds TSB という大手の銀行にすることにしました。パスポート、住所の証明できる家の契約書、ボスからの身元証明書、日本の銀行の資金証明、奨学金の証明書などを持っていきました。夫婦で joint account を作ろうと乗り込んだのですが、ここで思わぬことがおきました。私の口座は問題なく開設できたのですが、妻の口座が妻の住所が証明できるものがないとのことで断られました。日本からもってきていたVISA申請の際の戸籍の英訳を見せ夫婦だということを証明しようとしましたが、駄目でした。結局その日は、自分の口座とDebit VISAカードを申請して終了しました。外国のインターネットバンキングを開設するのは不安があったのでその日は申し込みませんでしたが、その後いろいろな振込みにインターネットバンキングがあると非常に便利であることがわかりネットバンキングを申し込み活用しています。(振込みに20ポンドから30ポンドかかります。ネットだと銀行に行かなくてよいうえに自行他行問わず振込み手数料が無料になります。)

7歳の息子は、日本を出発する前、プロ野球やネットでのゲームに強い興味をもちはじめていました。毎日インターネットを使って結果を見たりしていたので、こちらに来ていきなりインターネットが使えない環境に「インターネットやりたい」を連発していました。家には前の住人が使っていたと思われる Virgin media のインターネットのコネクターがありました。インターネットを家で開始するならここが一番早いに決まっていると思い、申し込むためにインターネットをしなければということもあり、二人で駅までインターネットできるところを探しに行きました。そこで思い浮かんだのが以前エジンバラを訪れた際に泊まったホテルでした。そこは1ポンドで30分インターネットができるところがありました。最初15分くらいで Virgin media の申し込みフォームに申し込みをし、その後電話がかかってくる状態にしました。その後15分で巨人の結果や、子供のゲームをさせ、かえって来ました。もっとゆっくりインターネットができるところはないか?家族で考えました。そこで浮かんだのがスターバックスです。それから家族はたびたびパソコンをリュックに詰め込んで、スターバックスに出かけました。何となく毎回同じところはいつものが来たと思われると嫌だったので、駅周辺のスターバックスを巡りました。コーヒーフラペチーノ、マンゴフラペチーノがいつも家族の頼む定番でした。これで赤ちゃん連れの家族がインターネットをしている様子は、何となく『一杯のかけそば』ならぬ『二杯のフラペチーノ』だと思いました。ある日スターバックスでメールを見ると大学の小林先生からメールが来ており私もかつて所属し4月まで名だけ監督をしていた野球部が東医体準優勝したことを聞きました。自分がこんな環境だったときだったので、非常にうれしいニュースで、自分も頑張ろうという思いを強くしました。

10日に航空便、12日に船便が来たとき、自分たちが送ったものにも関わらず、大きなプレゼントをもらったかのような喜びを感じました。家は一挙に豊かになりました。インターネットも18日に開通することが決まりました。インターネット会社との電話のやり取りは苦労しました。ようやく契約まで辿りついたと思ったら、送られてきた確認用紙が『Tsuchiya』ではなく『Tsukiya』になっていてまた、電話をかけて訂正しなければならず最後まで苦労しました。生活の立ち上げは本当に大変だなと実感した2週間でしたが、これほど家族と濃密に接したことのない2週間でした。荷物がついたらさっそく近所の公園に家族で出かけ息子と野球をやりに行きました。帰りに公園でお弁当をみんなで広げて食べたりもしました。公園には広大な芝生がありところどころある大木の付近には、リスも見ることができます。8月15日夏休み明けのLabのボスに電話をすることになっていました。子供の小学校も17日から始まることになっていました。いよいよ物もそろってきて、いろいろなことが動き出そうとしていました。

footballの国でbaseballfootballの国でbaseball

2011年10月09日

その4;~長男、小学校に行く~

8月15日を迎えました。17日が学校の始める日でしたがこの日は、小学校の校長先生に会い、学校生活で必要な物品を買う日でした。午後2時前、家族そろって学校に行きました。学校はマンションに続く小道からバス通りに出てわたるとすぐ、歩いて2-3分のところにありました。正面玄関から入り、受付に校長先生(Headteacher)との約束の件を告げると少し待つように言われました。
日本では小学校2年生に相当する長男は、普段あまり緊張する様子を見ることはありませんが、このときはやはり緊張したのか、多弁になり、しきりに壁の絵、写真、英語の掲示板を見ては質問してきました。10分ほど待ち、ロシアのプーチン大統領をやさしくしたような感じの、校長先生が笑顔で来てくれ、以前訪れた時会って以来4か月ぶりの再開を果たしました。

4か月前、エジンバラに最初に訪問したとき、この小学校の校長先生に会っていました。小学校にどうやって子供を入れるのだろうか?このことはあまり留学ガイドなどには書いていません。日本人学校はエジンバラにはなく現地校に入れるしかありませんでした。学校は公立、私立に大きく分かれ、公立もキリスト教系と宗教の関係のない学校とに分かれます。公立の、宗教の関係ない学校に入れようと思いましたが、実際どの学校がよいのか全く分からない状況でした。困ったので、まずGoogle MAPを見渡し、どこが一体住みやすい場所かを考えました。次に、これから行こうとする教室のラボに以前いた小学生の子供がいた留学生をボスに紹介してもらい状況を聞き、このとき日本同様学区があることを知り、その人の子が行っていた小学校は多くに留学生の子供がいて英語もきちんとサポートしてくれると教えてもらい、まず小学校の候補を絞りました。その後、その小学校のホームページからHeadteacher宛に小学校に子供を入れたい旨メールを送り、4か月前会うことになったのでした。

4か月前、校長先生は約束の日に校長室で温かく私を迎えてくれました。エジンバラまでの旅の話など少しした後私が、いくつか質問を用意してきたものを聞いていたところ、『では実際に、見ていただきながら説明したほうが早いでしょうから、スクールツアーに案内しますよ』、と私を学校案内に連れて行ってくれました。各教室を窓から覗き込むだけかと思っていましたが、先生と私は各教室に入り『日本から来ましたTsuchiyaさんです!』、と紹介してくれました。ある教室では、ちょうど自然災害について学ぶという授業で日本の大震災の勉強をした後だったようで、私が日本人であるということを知ると目を丸くしてびっくりした表情で見ている女の子がいました。さらにある教室では、『日本のことを誰か話してください』、と校長先生が質問を振りある子が、『春には桜が咲いて東京からは富士山が見えます』、と答えると校長先生は私に、『Tsuchiyaさんあっていますか?』、と聞いてきました。私はよく聞き取れず不覚にも東京に富士山があると解釈してしまい、『yes!桜は春とてもきれいですよ。でも富士山は東京にはありません。東京から少し離れたところにあります。』、と答えてしまい、校長先生に、『彼女は東京から富士山が見えるといっていたんですけどあっていますか?』、と直され冷や汗をかいたりしました。こんな調子でP1-P7まで(P1は日本でいえばx年生の意味)紹介していってくれました。授業の雰囲気はわかりましたが、小学生相手に緊張する時間でもありました。一通りスクールツアーが終わった後再び校長室に帰ってきて子供の生年月日を聞かれ、子供はP3に相当する年齢だということ知らされました。しかし、『来た時点で空きがあれば入れるということになっています。ですから、来たときにスペースがなければ入ることができません。』、と言われました。しかし前の日家はこの小学校の近くに借りようと不動産屋と仮契約のための費用を払っていたので、この家に8月に来た時点で、この小学校に入れないという事態になっては大変なので、その旨正直に告げ、『もしこの小学校に入れないようだとわれらは途方に暮れてしまいます。』、と泣きつき、その後、校長先生は事務のほうに相談に行ってくれ、『わかりました。現時点では空きがあるのであなたの息子は入学ということにしましょう。』、と校長先生が決断してくれたのでした。

校長先生は私の家族を息子の教室へ案内してくれました。クラスはP3/P2 (P3とP2の混合クラス)で生徒数は20人強で地元の生徒に加え台湾、中国、韓国、中東系はじめ各国から集まった子が多く在籍しているクラスだと教えてもらいました。たまたま、担任の先生もクラスに来ており、月曜日から水曜は女の優しそうな先生、木曜日、金曜日はいかにも体育の先生といった(実際体育の先生でした)しっかりした体つきの男の先生が担当してくれることとなりました。また、毎週月曜日にはEAL (English as an Additional Language)の授業、つまり、うちの子のように英語が母国語でない子のために特別に英語教育を行っていただけることになりました。こちらの小学校は、緑か黄色の学校のネーム入りトレーナー、黄色か白のポロシャツ、黒系のズボンなど一応制服があり、一通りそろえました。さらに学校の温かい防水ジャンパー、体育用のカバン、靴を含めて全部で4-5000円くらいと小学校用品は非常に安くそろいました。また、小学校の授業料は無料で、給食は弁当を持ってきてもいいし、一回当たり200円程度払って給食を食べてもよいシステムになっていました。そして、決定的に日本と違うのは、休み時間お菓子を持ってきて食べてもよいことになっている点です。ともかく、その日のうちにすべてそろえ、いよいよ入学の日を迎えました。

入学の日、私と長男は8時50分開始のところ8時30分位に学校につくように行きました。日本の学校のように各自教室に入って待つというスタイルかと思っていました。二人は正面玄関から入り、校舎の中の学校の受付の前に立ってまっていました。途中担任の先生に会いそこで待っているように言われましたが、その後待てども待てども生徒らしい人が見えません。『もしかしたら日にちを間違えたのか?』、と思うくらいの静けさでした。8時50分、古いタイプの目覚まし時計のベルのようなジリジリジリというベルが鳴りましたが一向に生徒は見当たりません。先生が一緒についてくるようにと後をついていくともう生徒はすでに裏口から教室方面へ向かっているところでした。こちらの学校では各学年ごとに教室近くの入り口前に集合してみんなで入るというシステムでした。また、P3以下は自分で学校へ来ることが許されず必ず親が送り、迎えに来るというシステムになっていました。

学校帰り、親のほうがドキドキしながら迎えに行った気がします。子供は飄々とした表情で出てきました。感想は『まあまあ』と親ながら、きもの座った子供の態度にびっくりしました。このようにして小学校は始まったのでした。親の研究デビューより一足先にデビューを果たしましたが親ながらあの度胸には大したもんだと感心しました。こんなところは妻に似た気がします。子供の小学校関係で家が一色になっているさなか、私もボスに電話を掛けました。『本格的に始めるのは9月からでいいよ。その前に来週月曜日一回私のofficeに来てください。』。私のこちらでの研究生活の一歩が始まろうとしていました。その前に、その週の土曜日、子供のスコットランド日本人学校補習校のデビューも控えているのでした。

小学校へ通う小学校へ通う

2011年10月24日

その5;~日本人学校補習校、そしていよいよ研究室へ~

8月20日土曜日、毎週土曜日にある日本人学校補習校に入学することになっていたため、エジンバラから25キロほど離れたリビングストンに行きました。日本語は自分たちでサポート出来るのではないかとも考えましたが、現地校だけではストレスも貯まることがあるだろうから同世代の日本人の子供と話す機会も作りたいという目的、そして何よりも妻の知り合いを作りたいという目的で行くことにしました。

日本人学校補習校は、リビングストンの現地の学校を間借りする形で行われていました。最初はまだ車が購入できていなかったので、電車で行きました。9時10分から学校開始でしたので8時6分エジンバラ発のリビングストンnorth行の電車に乗ろうと考えましたが、駅に着くと乗ろうとした電車はいっこうに掲示板に現れず、時刻表をよく見ると、小さく土曜日運休となっていました。仕方なく次の電車で行くことにしましたが、線路に止まっている電車はギリギリの時間までなってもいっこうにドアが開かず、おかしいなと感じているとよく見ると電車がとても長いことに気がつきました。もしかすると、と思い駅員に聞くとやはり前の方の車両だけ出発するとのことで、前の方までいそいで走り電車にようやく乗ることができました。
リビングストンの駅に着くと、調べていたはずのバスはいっこうに来ず、一体どうなっているんだと思いながらも初回から遅刻では格好が悪いので一台だけちょうど来たタクシーに飛び乗りギリギリで付くことができました。

ここの補習校は、全体で35人位、幼稚園から中学生まで各学年数人ずついて(一部少ないところは学年を融合させ)各学年に先生がいて授業を国語の授業を3時間行なってくれます。しかし運営は父母が中心となって行なっている学校でした。つまりそれなりに親の負担を覚悟しなくてはいけないということは有りましたが、このような環境ではいたし方ないなと感じました。授業開始前にはみんなでラジオ体操第一をやり、図書も思っていた以上に豊富でびっくりしました。長男は久しぶりに日本語の話せる授業を楽しんでいるようでした。特に休み時間に遊ぶことを楽しんでいるようでした。宿題は毎日30分程度は勉強しないと終わらない量出て大変ですが、日本に帰ったあとのことを考えたらやっておいたほうが良いかと思いました。そして何より、妻に知り合いがこれをきっかけにブレークスルーを起こしたかのように増えたのでした。日本人学校補習校はこうして始まり、それから毎週土曜日リビングストンに通う生活が始まるのでした。

そしていよいよ、8月22日、研究室へ通う日々が始まりました。研究室はエジンバラ大医学部と同一敷地内にあるThe Queen’s Medical Research Instituteという施設内にありました。ここの施設もかなり綺麗なのですが、10月半ばから(後に11月からに延期)研究室が同一敷地内にある新しくできる再生研究所に移動することが決まっていたので、ここは2ヶ月ほどの滞在場所となります。研究室は第三内科の全部の部屋を全てつなげひとつの実験室にしてしまったような作りになっておりかなり広い広さの研究室であり、そこをいくつかのグループが共同で使っていました。研究室にはいいところ悪いところがあるのでしょうが、新潟には新潟の良いところがあるように思えますが、ここのいいところは、肝障害マウスモデルがそろっていること、実験に必要な抗体、細胞、などがそろっていることそして、肝臓のグループの実験仲間が非常に多いことが挙げられます。肝臓の再生グループでは実験をしている人が10人、さらに線維化関連の研究をしているグループも合わせると20人を超えかなりの人数が肝臓に関連していることになります。肝臓の両グループ合同で月曜日には研究者が一人選ばれ一時間程度の研究発表を行います。金曜日には再生グループだけで各自実験経過の発表並びに今後の展望を述べます。毎週データのチェックがあるのである意味気が抜けない環境で正直厳しいなという印象を持ちました。

ボスにあったその日、ボスの部屋で持参したパソコンで実験計画の発表を行いました。計画はかねてからメールやスカイプそして実際に以前訪問したときに話し合っていて研究内容は既に決まっていました。良い実験計画が向こうにあればそれに乗ろうという気持ちも有りましたが、『自分でまず書いてみるので見てみてもらっていいか』と聞いたところOKを貰え、以前実験案として3つ提出していました。二つは新しくないということともうすでにこちらでやられているという理由で却下となりました。自分でもやりたいと思っていたひとつに反応を示していただき、「これをもっと大きくしていこう」ということでその実験に決まったのでした。イギリスは私の取ろうとした研究者枠VISA (Sponsored researchers) は二年が上限だったので二年でしっかり仕事を終わらせるにはしっかりした準備が必要であろうと考えました。日本出発前基礎データぐらい出しておこうと新潟で少し実験を行なっていたのでその発表を行い非常に興味をもってもらいました。『それで行こう』と受け入れてくれたことでやっと希望の場所で希望のことができる喜びが湧いてきました。自分では再生に関わる大事な仕組みと関連しているのではと漠然と思っていたのが質問を受けるうちに今まで曖昧だった疑問点、解決しなければならない点を明瞭に示してもらえたので、非常に満足の行く日でした。しかし、『じゃあ、明日研究室員のみんなに君の今までの論文の成果等を含めた研究発表をしてくれ』と言われ、明日ですか。。。と内心もう少し時間欲しいと思いながらもOKしたのでした。

次の日研究室員を前に今までの研究発表を行いました。研究員は皆私より5つ以上は下だろうと思える若い人たちばかりでした。非常に熱心に話を聞いてくれ、鋭い質問が飛んできてかなりきたえられていて優秀だなというのが正直な感想でした。その後ボスは、今後組織は誰々と相談し、培養は誰々とやり、と各メンバーに指示を出してくれ、今後動きやすい状態にしてくれました。開始は9月からのはずがズルズルと前倒しになって行くのでした。とにもかくにも次男を除けば家族で一番遅いスタートになりましたが、ようやく私も本業がスタートしたのでした。

8月、エジンバラは世界的に有名なお祭りの期間で世界中から観光客が訪れ、中心部は観光客であふれかえります。それに合せエジンバラ城では毎年8月の夜に、お城の入口に競技場のような観客席が出来、音楽隊の演奏を見聴きする『Military Tatoo』が行われます。毎日その時に花火が上がるようで家からはほぼ毎日花火が見ることができました。今年はチケットが取れなかった事、赤ん坊がいた事で諦めましたが、来年はお城で見たいなと思いながらも花火は引越し疲れを癒してくれる一瞬でした。こうして、家族みんなで駆け抜けて来た8月が終了するのでした。

8月は毎日花火です。家から。8月は毎日花火です。家から。 2ヵ月お世話になる施設2ヵ月お世話になる施設

2011年11月9日

その6;~かかりつけ医 (GP) 登録、車購入~

9月に入り本格的に実験へ入っていきました。子供も小学校に特に嫌がることなく通い続けてくれ、妻も友だちと外出してお茶したり、エジンバラ大学の男性研究員の妻のための一回1ポンドで託児付き英会話教室に通ったりと順調な生活のスタートに思えました。

毎日朝7時半位におき、下の子にご飯を食べさせながら自分も食べ、8時45分に上の子を小学校に送って、いそいでバスに乗って研究室に向かいます。バスには大抵フリーの新聞が置いてあるので、サーとどんなニュースがあるのか、サッカーの試合の結果はどうだったかチェックします。そうこうしているうちに研究室につき、研究を始めます。帰りは日本の時ではあまり考えられなかった夕方5‐6時の間に帰宅します。帰って毎日食事をしたあと、子供たちを風呂にいれ、子供と英語の宿題をやります。9時に子供たちを寝かせたあと、ようやく夫婦の時間になります。最近の二人のはやりは、ビールを買ってきて毎日500ml缶を半分にし、いろいろなビールを楽しむことです。特にビールに詳しいわけではないのでとりあえず片っ端から買っていきます。せっかくイギリスにきたんだからイギリスのをと思っていましたが、デンマークやドイツついにはバドワイザー、近所にあったアサヒスーパードライまで手を出す始末です。酒に弱い私はもともとビールを語るような資格はありませんが、はじめはアサヒスーパードライが一番だ。あの泡がいい!あのドライ感がいい!と思っていましたが最近はあまり泡立たないこちらのビールの味にもなれ、楽しむことができるようになってきました。こうして一日がパターン化されて回り始めました。

9月に入りもっとも変わったことと言ったら、車が来たことでしょうか。買った車は日産のノートです。ここスコットランドでも日本車はよく見かけます。TOYOTA, NISSAN, HONDA, SUZUKIはどこを走っていても多く見かけます。車を探し始めるにも、はじめあてがなかったため、日系のロンドンにある中古車外車のホームページを見ておよその相場を知りました。こちらは中古車の価格はほとんど日本と変わらないものの、ほとんどがマニュアル車でオートマはほとんど出回って居ないことも知りました。大学一年のとき部活にかまけて教習所に通う時間がなくなりなんとかオートマ限定でギリギリとった免許の付けがここになってくるとは思いませんでした。家の近くのTOYOTAにいって見て中古車リストを探して見たところ、オートマ車は気持ちいくら位に「Nothing!」と言われました。結局車は、ロンドンの日系の中古車販売店から買うことにしました。日本人学校の知り合いもここから買っている人が多いようでしたし、オートマ車が沢山の中から選べますし、車のことぐらい日本語でいろいろ細かく質問したかった事、スコットランドの自宅まで配達してくれる事からここに決めました。希望を伝えると車種をいろいろ紹介してくれますし、保険なども日本語対応のモノを紹介してくれすし非常に楽に交渉が進みました。結局3年たって約15000キロと走行距離も短い日産ノートを買いました。値段も値引き交渉に応じてくれ、相場から見ても納得のいく価格で購入することができました。車が来てからは生活が本当に便利になりました。エジンバラ郊外にあるIKEA(こちらの発音ではイケアではなくアイケア)などがあるショッピングセンターやトイザらスなどがあるショッピングセンター、そしてリビングストンの日本人学校の近くにあるショッピングセンターなど多くの場所に行けるようになり生活の楽しみが増えました。

8月から9月にかけもう一つ行なったことがGPへの登録です。GPとは general practitionerの略で一般開業医のことを指します。ここイギリスの医療制度(NHS;national health service)は日本のそれとは違いみな開業医に登録します。病気はまずこの開業医に相談し必要あれば大病院へ紹介するという構図に大まかになっています。こうした経路で医療を受けていれば基本的に医療は無料で受けられます。子供の必要な予防接種なども無料で受けることが出来ます。私たちのような留学生やその家族も6ヵ月以上長期滞在する人はこの恩恵にこうむることが出来ます。ですから日本のように直接大病院に受診するということが緊急時を除けば基本的にはありません。しかし、この無料で医療を受けるための経路はそれなりに制限もあり、非常に遅いことでも有名だそうで、遅れることが心配な人はprivateの病院を受診しそれなりに医療費が取られるとのことです。私たちもとりあえずGP登録を行いました。日本のように「○○医院」などの看板がないためなかなかさがすあてもありませんし、評判も全くわかりません。そのため小学校の受付でおすすめのGPがないかを聞きました。そこで近くにInch park surgeryというGPがあり近くておすすめだと言われました。そこでそこにとりあえず行ってみることにしました。そのGPは大きな平屋建てで大きさは日本の開業医2件分位ある大きなものでした。医者もパートタイムの医者を含め4‐5人で大きなものでした。受付でその日は登録用紙をもらって帰りました。登録用紙を後日だしに行くと、「登録用紙はOKです。後日、看護師と面談があります。その日時を知らせるため一回だけあなたの携帯電話番号にかけます。そのとき出れなかったり、来週の火曜日までにかかってこない時は自分で問い合わせてください。」と言われました。あまり優しくない言い方でした。

面談の日、家族で訪問しました。それぞれ尿を持っていきました。尿を試験紙で調べたあと(しかも素手で)面談が始まりました。病気の既往などを聞く簡単なものでした。一通り聞き終わったあと身長と体重を図りました。身長は日本ではかった時と同じだったものの体重が70キロから65キロになっていました。いくらなんでも減りすぎ?と思いました。家族も軒並み3‐5キロ体重が減っていたので間違えだとわかりました。体重計はボクシングの選手が計量で使うような機械でした。「大丈夫かGP?」というのが正直な感想でした。登録は無事終わったかのように思えました。しかし後日送られてきた登録用紙の長男の名前が間違えていました。さらに次男の予防接種歴は書いて提出したにもかかわらず全く無視されていて再度提出しに行きました。そして後日小学校で知り合いに自分の子供がこの間GPにかかったんだけどという話を聞いたところこうでした。「うちの子がいま高い熱出したので見てもらえないか」と問い合わせたところ「高い熱を子供が出すのはよくあることだから緊急性はなく明日受診希望の電話をしてくれ」とのことでした。翌日「今日は見て欲しい」と電話したところ「今日はいっぱいだから明日みてもらえるか電話してくれ」とのことでさすがにいっこうに見てくれないので文句を言ったところ「それでは今日連れてきてください。見ます。」との事だったとのこと。その方も台湾で医者で日本と同じように忙しい中、働いて来た人で二人してここの国の医療大丈夫?と話をしていました。少なくとも私が訪問した数日は私たちが日本で感じる雰囲気よりもかなり暇そうに見えました。何はともあれGP登録は無事済みました。受診は交渉が大事という印象を受けました。

生活全てのものがほぼそろった月でした。実験も材料が豊富にそろっていたので順調にスタートが切れました。そろそろどこかに観光に出かけてみたいと思う頃でした。この頃から観光計画をいろいろ立て始めました。した。

飲んだビール飲んだビール 英語の勉強。絵が沢山あって面白い英語の勉強。絵が沢山あって面白い
広大なスーパー広大なスーパー 日産ノートの前で日産ノートの前で

2011年11月27日

その7;~動物園そしてはじめての小旅行へ~

9月末から10月にかけて、生活も少しずつ落ち着いてきて、エジンバラ、イギリス国内を観光することを計画し始めました。こちらでは日本の時とは違い土日、夜間は一人で実験することをあまり推奨されていないと指導されますし、特にまだなれないうちはトラブルを起こすこともあるので禁止に近い状態です。また、実際ほとんどの人は夜間や土日研究室に行くことがありませんので私もそれに習って行動しています。

9月24日初めて家族で見に行ったところはエジンバラ動物園でした。日本語補習校の帰りに一回、家に帰る方向にバイパスで車を走らせていたものの、今日は天気がいいからどこか行こうよということで突然行くことが決まりました。エジンバラ動物園はエジンバラの中心部から西に5キロほどのところにあります。初めて市の中心部に近い車の多いところに出る機会だったので少し緊張しました。無事動物園までついたところ動物園の駐車場で4-5ポンド取られ入場料に大人一人15ポンド子供も10ポンドほど取られ正直大きな出費だなと感じました。動物園ってこんなに高かった?と思い旭山動物園、前よく行っていた京都市動物園の値段を調べたところ600円位とここの動物園は約3倍と明らかに高いことがわかりました。値段が高かったこともありとても大きな期待感をもって入っていきました。まずマップを見渡すと動物園に当たり前のようにいるキリンやぞうはいませんでした。やはりこの環境では生活が難しいということなのでしょうか。動物園はなだらかな山を利用して作られているので少しずつ動物を見ながら山を登っていく形になります。地球の歩き方スコットランドのガイドにもエジンバラ動物園は載っていてその目玉として午後2:15分から始まるペンギンの園内散歩があります。ちょうど2時前に動物園に入ったのでまずはペンギンを見ることにしました。ペンギンのエリアには多くのペンギンがいました。ざっと見ても50羽を超えるペンギンを見ることができました。これだけのペンギンが行進したら圧巻だね!と家族で話していました。時間が近づくと多くの人が集まってきました。また、盛り上げるためのアナウンスも始まり期待はmaxになりました。定刻にまず6羽がおりから出てきて飼育員の先導に付いて歩いて行きました。しかしいっこうに後に続くペンギンが来ません。まさかと思い周りを見渡すともう人垣は崩れ三々五々に行きたいところへ向かっていました。6羽でまさかの終了でした。ペンギンのあと一通り全部を回りました。敷地は山を一つ使った広大な動物園で、山頂からのエジンバラを見渡す景色には一見の価値があると思いましたが、かかったお金の割にはちょっとさみしいというのが正直な感想でした。コアラも二匹いましたが、狭い温室のなかでちょっと狭苦しい感じでした。売店にパンダのグッズがいっぱい売っていましたが、パンダは翌月来るらしく来た時期としては悪かったようです。長男の印象に残った動物はまさかの「アリクイ」でした。値段対満足度という点では不満の残る動物園でした。

10月15日、日本語補習校が中間休みで休みであったため、家族でどこか出かけようということになりました。(イギリスには小学校に日本にはない中間休みがあります。各学期の中間に約1週間の休みがあります。親も休んでしまい旅行をその時期にする人も多いようです。)車が来たので、スコットランド北部へ向かってドライブでもしてこようか?と考えていましたが天気予報で北に行くほど天気が悪いことがわかったので急遽南つまりイングランド方面へ行くことに前日夜に決めました。行き先は、地球の歩き方、インターネットを使い調べ、電車で2時間ほど南に下ったダラムという場所に日帰りで行くことに決めました。ダラムにはダラム城とダラム大聖堂があり世界遺産にも指定されています。”どうせ行くなら世界遺産”と大して歴史を知らないので決めました。ハリーポッターの撮影で使われたこともあるというのが子供にも納得してもらえるのではないかと思いました。

当日は電車で行くこととし朝、エジンバラのWaverley駅に行き切符を買うため窓口で並びました。家族割引を使い皆で往復1万円弱と安かったものの、指定席を指定したかったのに家族分は満席で指定がもらえませんでした。日本のように自由席があるだろうとタカをくくって行ったところ、特別に自由席と指定されているエリアはなく、全て基本的には指定席で各座席の上には「どこどこからどこどこまでは予約が入っています。その他のエリアは座っていいです。」という小さな電光掲示板が流れていました。それに気づかず空いていた席に座ったことろ乗客に「ここ私たちの席だけど」と言われ立ち退く様に。子連れで立つことになるのか?と思っていたところ子供を座らせることのできる席を途中までやっとのことで二つ確保できることが出来、もう一つは親切な人が「君は子供がいるからここに座りなさい」席を譲ってくれなんとか席を確保することができました。イギリスの電車の旅は指定確保が基本だなと思う往路でした。

ダラムに11時前につきました。ダラム駅に着くなりまず帰りの指定席をおさえました。朝は簡単にしか食べていなかったので、ダラム大聖堂まで歩く途中でお店が沢山あることはわかっていたのでどこかで昼食をかねて食べることとしました。5分ほど駅から歩くと川がありそこから川向こうのダラム城、大聖堂を見ることができました。さすが世界遺産だけあってその景色は荘厳でした。想像以上に好印象を受けました。川岸のパブでモーニングがやっていたので食べたあと、ダラム城、大聖堂まで歩いて行きました。途中の広場では露天が多く出店されており賑やかでした。ダラム城はダラム大学として現在は使用されており、その日は見学不可能でしたが、ダラム大聖堂は見ることができました。高さ67mのタワーを持つ大聖堂は1100年前後に建設されたとはとても思えないほど大きく、内部は広々としていました。ステンドグラスも美しく、ハリーポッターの撮影で使われた中庭も非常に整備されていました。67メートルのタワーにも入場料一人5ポンドで登ることができました。しかし余りにも急なので次男は背負っては不可能とのことで私と長男、妻と二つのグループに分かれて登ることにしました。階段が何段も続くその道は最初は1.5mほどの広さがあったものの次第に人一人が通れるだけの狭さになり急になっていきました。頂上まで上がると見晴らしは非常によかったのですが高所恐怖症の私にとっては足がすくむのに十分すぎる程でした。隙間のある壁で覆われているもののよりかかることを考えると1100年に建てられたことが頭によぎりなかなか壁際までいけませんでした。300段近く登って降りて来たでしょうか?降りたときには汗だくでした。ダラム大聖堂を見たあとはダラムの街の商店を見て回り、続いて広場にあった露天を見て回りました。ケーキや鉄板で豪快に焼いたハンバーガー、ホットドッグなどをのんびり食べてきました。

5時30分過ぎ、帰りは指定席をとっていたのでゆっくり帰ることができました。家族4人で使えるテーブル付きの座席で、非常に快適でした。車窓からは羊が沢山見えました。日帰り旅行でしたが、イギリスに来て家族4人で出かけたはじめての旅行であり、想像以上に大聖堂、街の雰囲気が良かったこともあり、大変満足して帰ってきました。10月も終わりに近づき新しく出来た再生研究所に移転する日が近づいていました。一体どんな施設なのだろうという期待が反面ある一方引越しのさいには多かれ少なかれ実験は滞ることが多いので不安も大きく持っていました。

ペンギンの小行進ペンギンの小行進 コアラとコアラと
世界遺産;ダラム城(左)とダラム大聖堂世界遺産;ダラム城(左)とダラム大聖堂 Breakfast ダラムでBreakfast ダラムで
ダラム大聖堂・中庭67mからの眺めダラム大聖堂・中庭67mからの眺め

2011年12月16日

その8;~エジンバラ城そして研究所移転~

10月30日、いい天気でした。この日は夏時間から冬時間に変わった日でした。10月30日の未明のうちに時計が一時間戻ります。つまり10月30日は25時間生活できることが出来るのです。エジンバラに来てからというもの、最も有名なエジンバラ城には入ったことがありませんでした。一時間長くなった10月30日そのエジンバラ城に行きました。エジンバラ城は、崖の上にそびえ立っていて難攻不落なことがよくわかる城です。いくつもの建物が長い年月をかけて作られた様子がわかります。日本の城とはだいぶイメージが違います。日本の城だと天守閣があって中心の建物がわかりやすいですが、エジンバラ城はマップがないとどの建物がどんな貴重な建物なのかわかりませんでした。とにかくこの城は古い、年季が入っているという印象です。その古い建造物のなかの物品で最も印象に残ったのはスコットランド王室に残る宝冠です。相当古いはずなのに、昨日作られたかのような清潔さ、宝石はまばゆいばかりに光り輝いていました。これだけでも一見の価値があると思いました。城の見学が一通り終わると、みんなで城内にあるcaféに入って紅茶とスコーンを食べました。休日でしたが日曜の夕方近くだったのでのんびり城からの世界遺産の景色を見ながら過ごすことができました。

その翌日、10月31日それまでいたQueen Medical Research Institute(QMRI)という建物から Scottish Centre for Regenerative Medicine(SCRM)に移ることになりました。SCRMは再生研究のために新たに建てられた建物です。QMRIとSCRMの間には大学病院があるため、ちょうどこれらの建物は病院を挟んで反対側の建物になりますが基本的に同一敷地内の引越しです。私は、まだ実験をはじめてまもないということもあって、大きな荷物はほとんどありませんでした。また、機材などの搬出、搬入の調整はもともといたグループメンバーがしてくれたので私は自分の荷物をもって行けばいいだけでした。もちろん引越し業者が引越しの荷物は運んでくれ、私の私物も任せることが出来たのですがどこかに紛れ込んでしまうと探すのが面倒なので自分の荷物は大きなIKEAのバックに小さいダンボールを二個詰め込んで引越しをしました。建物は上から見ると正方形の形をした写真にあるような建物です。4つの面はそれぞれGreen, Yellow, Red, Blueのエリアに分けられていて、それぞれ窓側(外側)にofficeがあり中心部に実験室があり、最中心に培養の部屋があるという作りになっています。Officeは普通いくつかの部屋に別れているのが普通ですがここは全く壁がなくいくつかのグループが同じ広い部屋のofficeを共有する作りになっています。どこかの会社のようです。また実験室(これまた広いスペースにたくさんの実験台が置かれていて各自の実験スペースが与えられています。)とofficeはガラスで仕切られていて、officeから実験室が丸見えでその人が何をやっているか一目瞭然です。培養の部屋はcell lineを扱うエリアとprimary cellを扱うエリアが完全に別れている作りになっている環境が整えられています。物品なども倉庫から必要な分を取り出すことができ、またゴミも自分たちで回収などすることなくかかりの人が定期的に変えてくれます。FCSなども必要量が分注され保管されていて、自分たちで注文、分注する手間が省けます。 実験室の掃除もしなくていい、つまり雑用をあまりしなくていい、実験に集中できる環境なのです。とは言うもののこれは全てがそろい、順調に動き出してからのことで、引越しして2週間はまともな実験ができませんでした。その2週間は非常に長く感じました。今までのデーターをまとめ、今後の実験計画、物品注文を整理し、関連論文を読んで。デスクにばかり座っていて本当に疲れました。イギリスの建物の雑さも感じられました。エレベーターは何回も故障しています。トイレも全館で使用できなくなる日が出ました。無料で飲めるコーヒー豆から引いてくれるコーヒー機がなりものいりで当初登場しましたが、行った半分位は故障中でした。新しい機械が最近入りましたが、今度は一杯50ペンス取ることになっていてお金を払ってまでという感じです。一ヵ月以上たった現在、まだ、物品不足は見られますが、一通りのことはこなせるようになり順調に稼働するようになりました。

ここで、イギリスの食生活に付いて触れておきたいと思います。だいぶ生活にも慣れましたが、やはりそれは日本食を毎日食べられるというのが大きいかと思います。パンやじゃがいも中心のこちらの食事はどうしても毎回ではストレスがたまってしまいます。車やバスで行ける範囲に4件の中華ショップがあり、そこで日本食材を購入することができます。調味料も醤油、味噌、みりん、味ぽん、ソース、お好み焼きソース等々値段は日本で買う二倍弱しますがそろえることができます。また、味の素の冷凍食品餃子、唐揚げ、冷凍で輸入されてくる納豆等も味わうことができます。そこらでも揃えることができないわかめや日本のせんべい、羊羮などはたまに親が送ってくれます。(羊羮なんて日本ではほとんど食べませんがこちらに来るとなぜか食べたくなります。)またこちらのベビーフードは油っぽくあまり美味しそうでないため、日本のベビーフードなどもダイエーネットショッピングなどを利用して日本から購入したりしています。利用したことはありませんがロンドンからも日本食材をネットで購入することも可能です。肝心の米ですが、はじめはカルフォルニア産の米『錦』を食べていましたがやはり日本のそれよりは美味しくなかったため、チャレンジでヨーロッパ産コシヒカリ『ゆめにしき』を一度購入してみました。そうしたところ、この米は大当りでコシヒカリの看板に偽りなく、まさに日本の米そのもので非常に美味しかったためその後、我が家の定期購入米となっています。近くの中華ショップで10kgあたり24ポンド(3000円弱)で買えるため割高感もありません。日本のスーパーにある大根や里芋は最近日本語補習校の帰りによった大きなスーパーで購入することが出来、大根を使用しての『おでん』やさといもの入った味噌汁も食べられました。カップラーメンも一応あります。こちらのカップラーメンは一言で『麺とスープがからまない』というのが感想です。日本の美味しいみそラーメン、喜多方ラーメンが食べたい今日このごろです

カップラーメンもありますが味は日本のものがはるかにいいです。カップラーメンもありますが味は日本のものがはるかにいいです。 今食べている欧州産コシヒカリ。味は美味しい。
エジンバラ城のcafeでスコーンを。エジンバラ城のcafeでスコーンを。 新しく出来た再生研究所(SCRM)。新しく出来た再生研究所(SCRM)。
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