20149月秋 活動報告(その2)

 

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ピンウールインに向かうため早朝5時半にホテルを出発。チェックアウトもあるので起床は4時半であった。ヤデナ先生がホテルまで迎えに来てくれた。ホテルに頼んで朝食ボックスを用意してもらい、空港にむかう車の中で食べた。本当はもっとゆっくり出たいところだが、ミャンマーの国内線はバスのようにぐるぐる巡回しているので、遅い便はそれだけ遅延や欠航が出やすい。新潟の佐渡汽船と同じように朝の第一便は確実に出るため、やむなく7時半のエアーバガンでマンダレー行きの飛行機を予約した経緯がある。

ヤデナ先生は、チェックインまで付き合ってくれた。係員がしきりにはかりをさしていて、ヤデナ先生がミャンマー語で何事か話している。「超過料金ですか?」と聞いたら「80ドル超過を払えと言われたけれど、ちょっとチップあげたら見逃してくれた」とのことである。こういうところは日本と違って融通が利く。

ごったがえす国内線の待合室で「齋藤先生!」と声を掛けられてびっくり。公衆衛生学教室で博士号を取り、いまはミャンマー在住のNGOで働いている藤野さんであった。地方に視察に行くところだそうだ。ミャンマーは政治的な理由で調査が思うように進まないと、以前は嘆いていたが、民主化によって少し自由に動けるようになったようだ。保環研の田村先生も同じ時期に大学院に在籍していたので旧知の仲である。しばし、ミャンマーにいるのを忘れてミャンマー情勢や新潟のことを立ち話した。今回、私たちが訪緬することは連絡していなかったのだが、縁があるとはこういうことか。今回はミャンマーの医学部の試験があるので、ヤデナ先生は同行しない。飛行機を逃さないように注意しなくてはならない。

なんとか聞き逃さずに飛行機に乗り、9時過ぎにマンダレー空港についた。閑散とした巨大な空港にモン先生が出迎えてくれていた。モン先生は今年7月に国際保健学教室にインフルエンザ研修で来ていた北部医学研究所の副所長である。一同、ほっとして迎えのバンに乗り込んだ。ここからから、ピンウールインまで、車で2時間近くかかる。国道は、中国との交易の主要幹線だが、山間部に入ると日光のつづら折れにようにヘアピンカーブになる。去年はそこを長いトラックが切り返しながら昇ったり下ったりしていて、すごいところだと思ったのだが、今年は慣れたせいか特に危ないとは感じなかった。坂をのぼると岡状の景観がみえ、すばらしい眺望である。

11時すぎにピンウールインの北部医科学研究所に到着。所長のミン先生が玄関まで出迎えて、長旅をねぎらってくれた。あたふたと所長室でスーツケースをあけ、セミナー用の消耗品や試薬をモン先生やアウン先生に引き渡す。この準備に2ヶ月以上かかった。長かった。直前まで携行品のチェックや連絡で、近藤君はまさに身も細るような日々を送っていたのだ。

「これから所員に先生方の紹介をします。」とミン所長に導かれて大きな会議室に移動した。体育館ほどの大きさで、着座している所員は、総勢100名近くは居るだろうか。ほぼ全員女性。留学や研修に出ていて、これでも数は少ないと言うが、黄色のユニフォームに身を包んだ女性がざっと並ぶのは圧巻である。

ミン所長らしく、きっちりと議事が決まっており、1.開会の辞、2.ミン所長の挨拶、3.齋藤の挨拶、4.新潟大学の先生方の挨拶、5.所員紹介、6.写真撮影のような順番であった。まだ12時になっていないが、早朝にヤンゴンを出発したので、すでに一日終わってしまったような感覚だった。ひとしきり自己紹介が終わり、ミン所長に質問はないかと言われたので、「デング熱」「マラリア」「HIV」「結核」「がん」についての状況はどうかと何気なく聞いた。「今はわからないので、みんな調べます」とのミン先生の返答。


昼食は、カオスエという、ココナッツミルクベースのソフト麺のようなものを用意してくれていた。朝早くヤンゴンを出たのでお腹が空いておかわりしてしまった。

「午後から何か予定ありますか?」と聞かれたので「まずは明日からのセミナーの下準備をしたい」とお願いした。生化学の部屋は、会議室から離れた別棟にある。生化学棟で、RNA抽出、マスターmixの作成、電気泳動の場所などを確認した。田村先生が担当のシークエンサーは2台あるが、稼働しているのは1台だけであった。RNA抽出用の冷却遠心機が部屋にないため、あれこれ話した後、「壊れた安全キャビネットをどけて、明日までに冷却遠心機をここに据え付けます」とのこと。さすがミン先生。1年前は全ての機材が箱の中に入っていた。それをこの1年間で整備して実験室に仕立てたその手腕はすごいものがある。

明日からのセミナーの機材の確認を1時間ほど行い、Mhon先生に観光に連れて行ってもらった。去年はカンドージ公園に行ったので、今年はティーダ先生のお勧めの仏像のたくさんあるという洞窟に連れて行ってもらうことにした。正式には「ピアィチンミャアウン洞窟」というらしい。

研究所から車で1時間ほどで洞窟に着いた。車を降りるところから靴を脱いでくれ、とモン先生に言われた。神聖な場所なので土足は厳禁なのである。現地では、有名なところらしく、門前市がたくさん立っている。洞窟の前にある階段状の池には、若者が多数、水遊びをしていた。楽しそうだが、何か感染しそう。

さて、いよいよ洞窟の中に入った。鍾乳洞のようなところで、数メートルおきに金ぴかの豪華絢爛な仏像が鎮座している。床は地下水でぬれていて、私はすぐに足が滑って転びそうになった。モン先生がとっさに腕を押さえてくれた。誕生日の祠がぐるりとある仏塔があり、土曜日の祠の前で拝んだ。しばらくそろそろと歩くと、階段が有った。「この階段を昇ると帰り道は2時間ぐらいかかります」と言われたため、諦めて元来た道を引き返した。明日からのセミナーに備え、体力を温存しなければならない。モン先生がウエットティッシュをたくさん用意してくれていたので、車の近くで泥だらけの足を拭いて、帰路についた。
  

今回の宿泊はHotel Pyin Oo Lwinというところであった。コロニアルスタイルのリゾートホテルといったところで、時計塔や、錦鯉のいる池も有り、バンガロー風の建物が敷地に並び、とても雰囲気が良い。去年は幽霊ホテルで怖い目にあったので、ミン先生にお願いして別のホテルにしてもらったのだ。部屋にはいると、床がチーク材のような切り出した板で拭いてあり、暖炉もある。シャワーやバスも完備で気持ちが良い。リピーターになりたい。疲れがとれそうだ。

夕食はミン先生が車でレストランに連れて行ってくれた。去年も行ったところだ。このすぐそばに去年泊まった幽霊ホテルがある。料理は中華で、ゆっくり出てくため、食べ過ぎた。おねだり上手のネコが、私の足元から「えさを頂戴」とすりよってきた。余ったエビの頭などをあげる。

この日の夕食付近でカメラを無くしてしまった。せっかく撮った写真が全て無くなってしまった。ホテルや、レストランを探してもらったが出てこなかった。

ホテルにもどり、就寝。その後、私は食中毒になってしまった。

 

 

924日(水)

午前2時頃、気分が悪くて、目が覚めた。だんだんお腹の調子も悪くなり、さらに熱が出てきた。吐き気で1時間おきに目が覚める。朝5時をすぎても症状がよくならないので、「今日はセミナーに行くのは無理だ」と諦めた。今日から、北部医科学研究所でインフルエンザ検出セミナーを行う予定であり、それが今回のミャンマー出張の目玉にも関わらず。

朝ご飯も食べられずに寝ていた。隣の部屋へ、近藤君が戻ってきた気配がするので、「具合が悪くて今日のセミナーは出れない」と話し、予定の資料を渡した。その後、八時半に、長谷川先生が「大丈夫?ミン先生に伝えるから」と声を掛けてくれて、私を残して一同は研究所に向かった。昼食頃に、ミン先生と長谷川先生がやってきて、ジュースを持ってきてくれた。「どうしますか、薬ありますか?病院行きますか?」とミン先生に聞かれたが、薬はあるのでとにかくホテルで寝ると伝えた。ホテルのベッドはとても寝心地が良かったのが幸いした。とにかくその日はずっと寝ていた。

夕方、ミン先生が、おかゆを持ってきてくれた。ミネラルウオーターと、経口補液の粉末も。全身倦怠感が強く、ミン先生がきても起きていられない。脂っこいものは食べる気がしないのでおかゆはありがたかった。ミャンマー式のステンレス製の4段の容器だ。スプーンはどこかな、と思ったら、1段目にスプーンが入っていた。2段目には塩、3段目、4段目にはおかゆが入っていた。さすが気配りのミン先生。おかゆを食べ、また横になる。熱が下がってきたらしく少し楽になった。抗生剤のクラビットを昼頃に飲んだがそれも効いてきたようだ。

 

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