教室の沿革


ホーム教室の沿革研究紹介業績スタッフリンクサイトのトップ

教室の歴史

教室開設の背景

 昭和21年、医学教育の改革を計るため、日本占領軍総司令部の意向で「医学教育審議会」が開かれた。その答申で公衆衛生学教育の重要性が示され、各大学に公衆衛生学教室を新設することとなった。本学では昭和22年、全国各大学にさきがけて、東大、阪大と共に我が国最初の公衆衛生学教室開設が認可された。

小坂隆雄教授時代(昭和24年5月〜昭和42年3月)

 昭和24年5月26日に、日本大学医学部衛生学教室教授であった小坂隆雄氏が着任し、当教室を開設した。
 主たる研究テーマは「体質学」で、基礎的生活現象や疾病と動態的体質の関係、動態的体質の地誌的研究等広範囲にわたって業績を残した。
 また、昭和25年にアイソトープ研究室を当教室に設置し、本学におけるアイソトープ研究の基礎を築いた。さらに昭和29年にはビキニ環礁での米国水爆実験時に、放射能雨観測を日本で初めて報告した。
 昭和40年に報告された「新潟水俣病」に関連し、当教室でも患者の頭髪や阿賀野川の魚からメチル水銀化合物を検出するなど、その原因究明に貢献した。
 小坂教授は在任中に、第15回日本公衆衛生学会総会(昭和34年)を学会長として開催し、天皇皇后両陛下の御臨場も得た。他にも第18回日本体力医学会(昭和39年)、第8回日本放射線影響学会(昭和41年)の学会長を務めた。

須永寛教授時代(昭和42年9月〜昭和60年3月)

 昭和42年3月に停年退官された小坂教授の後任として、名古屋大学医学部予防医学教室須永寛助教授が同年9月、教授に就任した。
 就任後、日本脳炎ウイルスの生態学と感染様式に関する実験的研究を主たるテーマとして多くの業績をあげた。さらに地域保健に研究分野を広げ、市町村や保健所と提携しての貧血調査や栄養調査を行い、業績を重ねた。これらの研究は国内に留まらず、昭和49年よりほぼ毎年医学部学生有志と共に、アジア各国において感染症や貧血に関する調査・研修活動を行った。
 昭和54年に君健男新潟県知事(当時)を学会長として新潟で開催された第38回日本公衆衛生学会総会では、実質的な最高責任者として副会長を務めた。

豊嶋英明教授時代(昭和60年11月〜平成7年5月)

 昭和60年3月に停年退官された須永教授の後任として、愛知医科大学公衆衛生学教室豊嶋英明助教授が同年11月、教授に就任した。
 豊嶋教授は循環器病学、主として心臓電気生理学を専攻していた臨床医から、予防医学の道へ進まれた異色の公衆衛生学者であった。
 豊嶋教授在任中、循環器疾患の疫学調査を主たるテーマとして研究が行われた。特に一貫して行われた突然死に関する疫学研究は、この分野でのパイオニアとして高い評価を受けている。さらに、がん疫学の分野で多施設共同研究(がんコホート)に参画し、また老人の生き甲斐を主たるテーマとして長寿問題へ取り組むなど、幅広い活動を行ってきた。
 豊嶋教授は平成7年6月1日付けで名古屋大学医学部教公衆衛生学教室教授に転任されたが、新潟県における循環器疾患の疫学、がんコホート、長寿問題などの諸研究は、その後も当教室員が引き継いでいる。

鈴木宏教授時代(平成8年2月〜平成22年3月)

 豊嶋教授の後任として、国立仙台病院、鈴木宏生理生化学室長(WHO呼吸器感染症協力センター所長兼務)が本年2月、教授に就任した。
 教授は昭和45年に東北大学医学部を卒業後、同小児科に入局した。小児ウイルス感染症の分野で研究を行い、乳幼児嘔吐下痢症(白色便性下痢症)がロタウイルスによることを初めて明らかにした。昭和60年よりWHO客員研究員として英国留学後、昭和61年より平成元年までWHO西太平洋地域事務局感染症対策課長としてB型肝炎、エイズ等の感染症対策に従事するなど、国際保健の道へ進んだ。平成2年より国立仙台病院に勤務し、平成7年よりWHO呼吸器感染症協力センター所長を兼務した。感染症の疫学、国際医療を主たる研究分野として、インフルエンザウイルスの疫学や耐性を中心に業績を上げた他、保健医療分野における地理情報システム(GIS)の活用にも力を入れた。平成22年3月に定年退職し、現在は本学名誉教授、および新潟青陵大学特任教授。

ホーム教室の沿革研究紹介業績スタッフリンクサイトのトップ