教室の沿革、現況

 当教室は、新潟大学医学部付属腎研究施設の2つ目の部門(当時の名称は免疫学部門)として1980年(昭和55年)12月に,清水不二雄教授が初代教授として着任され、その歴史がはじまりました。翌年1981年(昭和56年)に、留学先の西ドイツから帰国されたばかりの追手巍先生が助教授に、原田恵子先生が助手に就任され、教室の研究体制が確立されました。
  1985年(昭和60年)山本(旧姓原田)恵子先生が退職され、本学第二内科出身の吉田和清先生が助手に就任され研究体制の一翼を担われました。吉田和清先生は、1987年(昭和62年)に、第二内科の助手に移られ、後任に折笠道昭先生が就任されました。折笠先生は在任2年という短い期間ではありましたが、その間に蛋白尿惹起能を持つモノクローナル抗体の分離に成功し、その後の教室の研究の土台となる多くの成果を挙げられました。1988年(昭和63年)4月に、折笠先生は歯学部薬理学教室に移られ後任に、森岡哲夫先生が就任されました。森岡先生は、当教室の初代の大学院生で、学位取得後、教室初の生え抜きのスタッフとして助手に就任されました。森岡先生は、ラットを用いた動物実験だけでなく培養細胞を用いた研究でも多くの成果を挙げられました。また森岡先生は、1996年に新設の機能制御学分野の助教授に着任されるまで、研究だけでなく大学院生、研究生の指導、教育において教室の中心的な役割を果たされました。1991年(平成3年)には、新設の助手のポストに河内裕先生が就任されました。河内先生は、1992年(平成4年)にボストン大学腎臓部門のSalant教授のラボに留学され、東京女子医大腎センター内科出身の小林英雄先生が助手に就任されました。小林先生は腎炎モデルにおける炎症細胞動態の解析で重要な成果を挙げられました。1995年(平成7年)河内先生が留学から戻られ助手に復職され、小林先生は東京女子医大腎センター内科に戻られました。
 腎研究施設は、1996年に発展的に改組され、当教室は分子病態学分野として再スタートいたしました。In situ-IC腎炎モデルを用いた研究、糸球体培養を用いた研究などで国際的に極めて高い評価をうけ、長く清水教授とともに教室の屋台骨を支えてこられた追手巍助教授は、新設の機能制御学分野の教授に着任されました。1997年(平成9年)、追手先生が移られたあと空席になっていた助教授に河内裕先生が就任されました。
 2006年(平成18年)3月、清水不二雄先生は定年退官され、河内裕先生が2008年(平成20年)4月に第2代の教授に就任されました。
 当教室は、1981年の教室のスタートから、現在までの34年間、腎炎発症の基礎研究分野で、世界をリードする多くの研究成果を挙げてまいりました。2002年には糸球体上皮細胞(ポドサイト)の国際シンポジウムを新潟で開催いたしました。ポドサイト分野における国内唯一の研究会である”弥彦ポドサイトセミナー”を当教室が中心となり毎年開催しております。教育面でも過去30余年の間に約40名の大学院生を受け入れてきました。また、中国、韓国、タイなどのアジア諸国からだけでなく、米国、オーストリア、エジプトなど多くの国からの留学生も受け入れてきました。当教室出身の先生の多くは、現在、腎臓病の研究、臨床の第一線で活躍されておられます。
 2016年4月1日から、腎研究施設は、腎研究センター基礎部門に移行しました。これまでの教室の伝統をさらに発展させ、「糸球体障害、蛋白尿発症機序の解明、腎炎、ネフローゼ症候群の治療、予防法の確立」という私達の研究の最終ゴールに近づくために、現在も教室員一丸となって日々、研究を続けております。