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耳の奥にあり、音を増幅する「生体電池」の仕組みを、コンピューターシミュレーションで解明
新潟大学医学部生理学の日比野浩教授・任 書晃助教らは、大阪大学医学系研究科の倉智嘉久教授らの共同研究により、鼓膜の奥にあり、音を増幅するための『生体電池』の仕組みを、コンピューターシミュレーションを用いて明らかにしました。この電池は、電解質の濃度差を利用した複数の小規模電池や抵抗などの部品を含む「並列電気回路」が、更に3つ「直列」につながってできていました。また、一部の遺伝性難聴は、特定の小規模電池が壊れて回路に異常な電流が発生することが原因であることも分かりました。これに関する論文は、米国科学アカデミー紀要 『PNAS; Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America』 の109巻23号(9191-9196頁:2012年)に掲載されました。
1. 概要
鼓膜の奥にある渦巻き状の「蝸牛(かぎゅう)」は、聴こえに不可欠な器官であり(図1)、音の波を電気信号に変換すると共に、小さな音を増幅する働きを持ちます。前者の働きは聴こえの感覚細胞である「有毛細胞」によって担われますが、後者については蝸牛を満たす体液であるリンパ液の高い電位(+80 mV)が極めて重要な役割を果たします。リンパ液の高い電位は、蝸牛の上皮組織に備わった「生体電池」に由来すること(図1)、失われると(即ち生体電池が壊れると)聴こえが悪くなること、などが分かっています。1980年代後半から90年代にかけて、蝸牛の上皮組織には電解質、特にカリウムの濃度差を利用した仕組みが備わっていて、それが「生体電池」の重要な要素であることを示唆する実験結果が発表されました。

日比野教授や倉智教授らは、2008年に、特殊な電気生理学実験により、カリウムの濃度差を利用した仕組みが少なくとも上皮組織には2つあり、それが「生体電池」を作っていることを見出しました(PNAS 105:1751-1756, 2008)。しかし、「生体電池」は、この2つの仕組みのみで果たして出来ているのか、それらがどのように組み合わさっているのかは、理解されませんでした。近年では、電解質の濃度差を利用した仕組みの部品に相当する「イオンチャネル」の遺伝子異常が難聴の原因であることも幾つか報告されていますが、それが如何にして聴力を低下させるのかは、大部分が未解明のままです。

蝸牛は直径が数ミリ、生体電池がある上皮組織は厚さ20ミクロン程と、非常に小さいため、実験には限界があります。そこで、今回、コンピューターシミュレーションを用いて上記の謎に挑みました。そして、

蝸牛の上皮組織には、実は主に3つの「仕組み」があり、それぞれは電解質の濃度差を利用した複数の小規模電池や抵抗などの部品が並列につながった「電気回路」である。
3つの「電気回路」のうち、2つはカリウム電池が、1つは塩素電池が組み込まれている。
3つの「電気回路」は「直列」のループ状につながれており、その結果、+80 mVの「生体電池」が作られている。通常は、塩素電池はあまり働かない。
「生体電池」からはカリウムからなる電流が常に循環して電池の起電力が保たれるようになっている。
ことを、初めて明らかにしました(図2)。また、塩素を運ぶ「イオンチャネル」の遺伝子異常で難聴が起こることが知られているのですが、蝸牛の「生体電池」は今までカリウムが主体と考えられていたため、病気発症のメカニズムは全く見当がつきませんでした。今回、シミュレーションをしてみると、この遺伝病では、塩素電池が壊れ、その電池が組み込まれた回路に異常な電流が流れる結果、「生体電池」の起電力が大幅に弱くなってしまうことも分かりました。
図1 鼓膜の奥にある聴こえの感覚器官「蝸牛」(左図)。右図は、蝸牛の断面図。蝸牛は三つの管からなる。中央の管を満たすリンパ液は+80 mVを常に示す。この高い電位は、音の増幅に重要であり、上皮組織に備わった生体電池により保たれる。
2. この研究が意味するもの、将来の展開や期待
今回の研究は、聴こえに極めて大切な蝸牛の「生体電池」の仕組みをほぼ解明するものです。特に、生きた動物の蝸牛では、回路を直接見たり、電流を測定したりすることは不可能ですから、シミュレーションでしか分からない研究成果と言えます。このコンピューターシミュレーションシステムを更に改良して応用すれば、難聴の病因解明や新しい治療法の開発につながるかもしれません。例えば、蝸牛に原因がある難聴へは、現在、ステロイドやビタミン剤などの古典的な薬物が使われています。現在、数百万人が罹患する難聴者の数は、超高齢化社会を迎える日本で増加することは必至であり、効果的な治療法の開発が急務です。シミュレーションにより、事前に薬物のデザインやスクリーニングをしたり、効果や副作用を予測したりすることが可能になれば、効果的でコストパフォーマンスがよい開発が期待できるようになります。
図2「生体電池」の仕組みのイメージ。カリウム電池や塩素電池を含む3つの並列電気回路が、直列につながっている。正常(上図)では+80 mVの起電力を示すが、塩素電池が壊れる遺伝性難聴(下図)では、回路に異常な電流が流れ、生体電池の起電力が大幅に低下する。