新潟大学医歯学総合病院 新潟大学眼科

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DIVISION OF OPHTHALMOLOGY AND VISUAL SCIENCE,
GRADUATE SCHOOL OF MEDICAL AND DENTAL SCIENCES,
NIIGATA UNIVERSITY

沿革

歴代教授と教室の変遷 平成22年、教室は創設後100年を迎えた。明治時代に創立され、100年以上の歴史を持つ医学部は全国80医学部の中でも十校程度しかない。日本でも有数の長い歴史を教室は誇っている。

初代
菅沼定男 教授

新潟医学専門学校が明治43年に創設され、眼科学講座の設置が定められて、初代教授として京都帝大より菅沼定男教授が赴任されたのが、新潟大学眼科学教室の誕生であった。当時は旧病院外来棟の東端に眼科外来があり、それに接して教室が設置されていたという。菅沼教授は病理学者として活躍し、眼結核の研究などで業績を残された。 大正8年8月、菅沼教授は慶応大眼科の初代教授として転任された。

官立新潟医学専門学校(大正初期の写真) 手前のレンガ造りの門は通称「赤門」として現存(登録有形文化財) 奥の講堂は昭和50年頃まで残されていた。


第2代
熊谷直樹 教授

第2代教授として熊谷直樹教授が愛知医専から大正8年8月赴任された。 大正11年、新潟医専が新潟医科大学に昇格し、教室も新潟医科大学眼科教室と改称された。熊谷教授は引きつづいて医大教授として在職された。翌大正12年には眼科専用病室及び手術室が新築され、名実ともに医大眼科の陣容をととのえるに至った。熊谷教授は眼圧、緑内障、白内障、網膜剥離と多くの分野で研究業績を残された。「前房水の起原」など有名な論文を発表し、日眼総会では「緑内障の診断と治療」の特別講演をされた。また熊谷教授は1930年、まだ網膜剥離が不治の病であった時代に、まだ日の目を見たばかりのJules Goninの手術治療をいち早く導入し、国内で初めて網膜剥離の手術を行っている。 昭和21年3月、熊谷教授は定年退職された。

昭和初期の医科大附属病院(昭和26年に焼失)
左写真の緩やかな坂道の向こうに病院の正門がある
正門を正面から撮影した右写真を見るとかなり大きく立派な建物だったことが分かる

第3代
三国政吉 教授

昭和21年12月第3代三国政吉教授が就任された。 昭和24年5月に新潟大学が発足し、新潟大学医学部眼科教室となり、三国教授が引きつづいて在職された。網膜血管径の計測、網膜血管血圧の測定を中心とする網膜血液循環の研究をライフワークとされた。 三国教授就任後の昭和26年11月12日附属病院で火災が発生し、各科の外来など1550坪が焼失してしまう。眼科も教室を失い、旧第3講堂の一部、病室の廊下および動物舎の一部を用いていた。後、仮外来棟、さらに第5病棟跡に入り、昭和32年旧眼科病室の建物に移った。その後昭和44年に医学部に西研究棟(主研究棟)が完成して、その7階に移った。 火災で焼失した附属病院は昭和29年に新館が完工し、その後平成24年に新外来に移転するまでこの建物が使われ続けた。病棟も昭和36年に東病棟、昭和38年に西病棟(さらに昭和52年に新西病棟)が新築された。 昭和47年3月を以て三国教授は定年退職され、同年5月新潟大学名誉教授となられた。

昭和後期、80年代の医学部と病院の全景 写真中央の横に長い建物が旧病棟(新西、西、東病棟の3棟が連なる) その奥が研究棟で眼科学教室は最上階7階にあった 病棟の少し手前の横に長い建物が旧外来棟(昭和29年に完工) 多くが三国教授時代に完成した建物だが、よく見ると木造で低層の建築物がまだ所々に残っている 一番手前の建物群は歯学部。


第4代
岩田和雄 教授

昭和47年6月1日岩田和雄助教授が第4代教授として昇任された。岩田教授の指導の下で特に緑内障に関する研究は飛躍的に発展し、基礎医学と臨床眼科学の両者に多大な業績を築き上げ教室の名を世界に知らしめた。「新潟と言えば緑内障」の時代の始まりである。平成4年の日眼総会における特別講演「低眼圧緑内障および原発開放隅角緑内障の病態と視神経障害機構」、同年10月の日本緑内障学会における須田記念講演「原発開放隅角緑内障及び低眼圧緑内障のNeuropahty」は、その後の緑内障の研究と臨床に大きな影響を与えた。 平成5年3月31日岩田教授は定年退官され新潟大学名誉教授となられた。


第5代
阿部春樹 教授

平成5年9月1日阿部春樹教授が第5代教授として昇任された。緑内障研究というテーマを岩田教授から引き継ぎ、緑内障の研究と診療のレベルをさらに高め揺るぎないものとした。 平成22年には教室開設100周年を迎えた。 昭和44年から西研究棟7階にあった教室は、医学部研究棟の改築で平成15年に西研究棟5階に移転した。また平成13年に新西病棟、平成18年に新東病棟が新築され、眼科病棟は東病棟6階に移転した。さらに平成21年には中央診療棟が開設され、中央手術室がその2・3階に移転している。平成24年(阿部教授退任後の11月)には新外来棟が完成した。阿部教授の在任期間中に、医学部がある旭町地区の景観はかつての面影をとどめないほどに様変わりした。 平成24年3月31日阿部教授は定年退任され新潟大学名誉教授となられた。<

平成27年の病院の全景(上にある80年代の写真と同じアングル) 一番手前は改築された歯学部 その奥にあった旧外来棟はなくなり、さらにその奥、屋上にヘリポートを備えた外来棟が西、東病棟の跡地に新築された 一番奥に見えるのが12階建ての病棟で、背後の研究棟はほとんど見えない(Apple社Mapで作成した3D写真)。


第6代
福地健郎 教授

平成24年11月16日福地健郎教授が第6代眼科学主任教授に就任し、現在に至っている。


新潟の医学史と教室創立以前の眼科事情 〜目の愛護デーは新潟発?

官立新潟医学専門学校の前身である新潟医学校が開設されたのは明治12年である。しかしそれよりも更に以前から新潟県内の各所で医学校、医学館が設立されていた。「新潟大学医学部百年史」によれば、安永5年(1776年)に新発田藩に医学館が設立され、その後江戸時代後期には長岡、佐渡、高田にも医学校が設立されたということである。明治2年には越後府病院が設立されたが、これは当時新潟の行政中心だった水原町(現阿賀野市)にあった。病院頭取は竹山屯(たむろ)氏であった。しかし翌年には行政庁が現在の新潟市に移転となり、府病院は廃止されてしまう。

明治6年に私立新潟病院が現在の新潟市医学町に開設され、ここで医学教育も始まった。前述の竹山屯は明治8年に新潟病院副医長兼医学校助教に任命された。明治9年に新潟病院は県に移管された。

明治11年9月、明治天皇は北陸御巡幸の折、越後に眼疾患者が多いのに気付かれ9月18日にその治療及び予防のためにと御手元金千円を下賜された。県当局は民間から寄付9千円を集め、加えて合計1万円とし、この利子を眼病対策に当てることになった。翌明治12年2月に新潟病院内に眼科講習所が開設された。差し当たって竹山屯が講師となり、県下の医師を集めて眼科講習会を開いたところ受講者延べ151人に及んだという。これらの医師に各地区の眼病治療及び予防活動を依頼した。このように本県における眼病の治療および予防の活動は、教室の創設以前からかなり活発なものがある。

因みに「眼の記念日」はこの日を記念して毎年9月18日と定められ、昭和14年以来毎年日本全国で無料眼疾検診、視力保存に関する講演会、講習会等の記念行事が行われてきた。しかし終戦による諸事の混乱と同時に、いつしか立ち消え状態になってしまった。その後復活して戦前と同様の行事が続けられているが、期日は現在10月10日に変更され、目の愛護デーとして定着している。

明治12年7月に新潟病院は新潟医学校となり、病院はその附属施設となった。竹山屯は初代医学校長に任命された。明治30年には同院に眼科の診察室と手術室が開設され、明治43年の医学専門学校の創立と教室の開設へと繋がっていくのである。

ところでこのエピソードの要所に随時登場する竹山屯は黎明期の新潟眼科医療のキーマンと言えるだろう。明治11年明治天皇の北陸巡幸で眼病対策にご下賜金を賜った際も、目の悪い者が非常に多い事に気付かれたことを天皇に問われた竹山が「その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上した」(竹山病院HPより引用)のがきっかけとなったという。さらに竹山は明治12年に「眼科提要」を出版し、この書は多くの医学校で眼科の教科書として使用された。幕末期に長崎に留学し医学を学んだ竹山は初代新潟医学校の校長となるが、明治18年に医学校を辞任し開業する。そして新潟市の中心部に竹山病院を設立し、ここに産婦人科部長として迎えられたが荻野久作博士である。荻野博士は後に排卵と妊娠についての研究で大きな業績を残した(一般には「オギノ式」で有名であり、現在も医学部近くにある「オギノ通り」が荻野博士の業績を讃えている)。竹山病院に眼科がつくられなかったのは残念であるが、竹山屯の多大なる貢献が現在の新潟の医学そして眼科医療の礎を築き、その後の発展をもたらしたことは言うまでもないだろう。