新潟大学医歯学総合病院 新潟大学眼科

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DIVISION OF OPHTHALMOLOGY AND VISUAL SCIENCE,
GRADUATE SCHOOL OF MEDICAL AND DENTAL SCIENCES,
NIIGATA UNIVERSITY

キャリア形成プラン

 

新潟大学眼科
中堅医師 吉田博光

 

後期研修医一年目は新潟大学にて研修を行いました。大学でしか経験できないような、角膜移植などの手術や幅広い症例を経験できました。その後は網膜硝子体手術に興味があったこともあり、部長の村上健治先生をはじめとした硝子体術者の揃う新潟市民病院にて研修を行わせて頂きました。白内障手術、網膜復位手術、硝子体手術をメインにいろいろな手術を丁寧に指導していただき、たくさんの執刀経験を積むことができました。
その後は大学に戻り、社会人大学院に進学し、日々の臨床を行いながら臨床研究を開始しました。研究のテーマが決まった頃、手術について独り立ちをしたいという思いもあり、長岡赤十字病院に唯一の硝子体術者として赴任し、貴重な経験を積ませていただきました。現在は再び大学に戻り、研究をまとめると共に、日々の臨床を行っております。
私が硝子体手術を指導頂いた頃は術野の狭い接触レンズを用いて手術を行っていましたが、今ではほとんどの手術を術野が広く取れる広角レンズシステムを用いて行っています。そして、今後は助手だけでなく、多くのスタッフが術野を共有できる3Dシステムを用いて手術を行っていく予定です。眼科はすごい勢いで技術が進歩しており、興味の尽きない分野だと思います。


むらかみ松岡眼科
松岡 尚気

History

平成11年3月
新潟大学卒業
平成11年5月
新潟大学眼科学教室入局
平成12年4月
海谷眼科勤務
平成13年4月
長岡赤十字病院勤務
平成14年4月
聖隷浜松病院勤務
平成15年4月
厚生連村上総合病院勤務
平成17年4月
新潟こばり病院(現 厚生連新潟医療センター)勤務
平成18年10月
新潟大学医員
平成19年5月
University of Southern California, Doheny Eye Institute留学
平成21年4月
厚生連村上総合病院勤務
平成22年4月
新潟大学医員
平成23年
新潟大学博士号取得
平成24年7月
新潟大学助教
平成25年4月
外来長
平成28年4月
病棟長・副統括医長
平成29年4月
総括医長
令和2年3月
新潟大学退職
令和2年10月
むらかみ松岡眼科 開院

私が新潟大学を卒業して新潟大学眼科学教室に入ったのは20年も前の話になりますので今とは環境や条件が異なりますが、その間ずっと携わってきた教室の育成方針は現在とも大きな違いはないと考えています。
当初より私は、自分の努力がそのまま結果として明確になる手術をメインで行えるような科を志望しており、整形外科、脳外科、眼科の3つから、もっとも教室員への対応が丁寧であって、術者としての独り立ちが早いこと、自分の時間が確保しやすいこと、そして何よりも見えないものが見えるようになって明るく患者さんが退院されていくこと、これらの理由から眼科を選択いたしました。
広大な面積を持つ新潟県唯一の眼科専門研修基幹施設である新潟大学には、昔から緑内障班、網膜硝子体班、角膜・感染症・ぶどう膜炎班、斜視弱視・神経眼科班、眼腫瘍・眼形成班とすべての専門分野が揃っており、1年目は大学内で各分野をローテーションで回って眼科学の基礎を学びました。大学では病棟該当班の患者を担当し、朝のうちに診察、その後指導医に内容を確認、コメントをいただき、それから担当班の外来の手伝いもしくは新患の予診や検査をして、午後は手術の手伝いもしくは病棟の新入院患者の検査等を行いました。入って2か月ほどすると、新潟県内の関連病院の出張で週に何日か外来や手術を手伝い、大学とは異なる地域医療にも関わり始めます。このシステムは臨床研修経験のみならず収入的にも非常にありがたいものでした。この頃から、週二回の教授回診時に患者のプレゼンテーションをするようになり、週一回の教室全体の症例検討会にも、交代で検討患者の資料を作成し、発表しました。ここでのテーマを基に、1年目の間に必ず全国学会で一題以上の発表をしてそれを専門医試験の受験資格となる論文作成につなげる流れとなります。1年が経つ頃には、出張先では一応外来診療をひととおりこなし、白内障手術も一部もしくは完遂できるようにまでさせていただきました。
2年目以降は、基本的には大学を出て地域の病院勤務となって、より一般的な医療に携わりますが、内容は大学とは一変し、何よりも責任ある主治医として外来患者と向き合うようになります。指導医のもとで手術経験数も飛躍的に増加し、執刀医にもなり、眼科医として独り立ちするための総合的な研修が始まります。その後は目指すものによって進路が異なり、大学院に入る者、地域医療を継続する者、大学に戻る者となります。私は手術を主とした臨床経験を重ねたかったので、長期間、学外の病院勤務をさせていただきました。当時は県外にも関連病院が数多く(現在は新潟県内のみ)、静岡県、山形県、長野県、秋田県にまで出張先があり、私は新潟市外では長岡市の長岡赤十字病院の他に、静岡県浜松市の海谷眼科に1年、聖隷浜松病院にも1年お世話になりました。県外研修では他大学の先生方とも一緒の勤務となりますので、一つの大学にとらわれない多様な仕事のやり方を学べ、未来につながる貴重な人間関係も構築でき、私にとっては眼科医人生で欠かすことのできない尊敬する先生にも出会う機会を得られました。5年目には村上市の厚生連村上総合病院で一人医長となり、直接の指導医がいない初めての状況になりました。ここでの緊張感は何ものにも代えがたい重圧でしたが、各分野の先輩医師に相談したり、個別で手術指導に来ていただいたりと教室全体の支えがあったおかげで、無事に2年間をやり遂げられたことはその後の大きな自信につながりました。
網膜硝子体分野の医師として大学に戻った折に、前任者である先生から、人工網膜の研究や新しい硝子体手術器械の開発などに携わるUniversity of Southern California, Doheny Eye Instituteへの留学のお話をいただきました。専門医も取得して、ある程度の症例を経験し、新しいステージを模索していた私にとっては大変魅力的な挑戦でありましたので、進んでこの提案をお引き受けいたしました。ここでの研究結果が学位取得にも繋がり、カリフォルニアでの経験は私の人間としての価値観も変え、人生のターニングポイントとも言える本当にかけがえのない時間になったと思っています。
帰国して大学に戻ってからは教室のスタッフとなり、臨床だけでなく、教室運営や病院経営、学生・研修医教育などの仕事にも向き合い、外来長や病棟長、総括医長を務めさせていただくことで、管理者側、経営者側、また教育者としての立場を理解する良い勉強ができました。総括医長を終えたことで教室での仕事に一段落がつき、次のステージに移行するタイミングであるように思いましたので、福地健郎教授に相談させていただき、その後の進路につき考えるようになりました。私の場合、帰国後も再び村上総合病院への出張に恵まれ、将来は生まれ育った新潟市ではなく、縁を感じる村上で働くのも魅力的と思えるようになり、かの地での開業を決意するに至りました。
開業には、多くの刺激的な人材に囲まれ、大学病院ならではの大変な症例に立ち向かって手術する機会や、最新の多種多様な器械・機器を用いての研究から離れてしまうさみしさはありますが、現在も、教室関連施設である新潟市内や村上総合病院の手術に定期的に関わらせていただき、連携施設として入院患者を送らせていただくなど、教室の強いバックアップのもと、安心した毎日を過ごすことができています。
実は、眼科というものは私が当初希望した外科的分野のみならず、例えば感染症や神経眼科などは非常に内科的で専門分野によって大きく外科/内科系の比重が異なり、患者層も新生児から高齢者まで全年齢にわたり、小児科的要素から老年内科的要素まで内包しています。また独り立ちも早く、昔から女性医師の割合も多いため、産休・育休後でも働きやすい環境づくりが進み、現在は新潟県の地域枠コースの先生方も多く入られて地域での研修スタイルにも柔軟に対応できるようになっています。専門分野の選択肢が多岐にわたり、働き方の多様性も高い眼科は、どなたにとっても魅力的な科だと思います。新潟大学眼科学教室に興味をお持ちの方々は、ぜひ気軽に連絡をしてみてください。そんな皆さんと将来関わることができたら、本当に嬉しいことに思います。皆さんをお待ちしています。


新潟市民病院
村上 健治

「網膜硝子体疾患の治療を中心に地域に貢献しています!」

平成元年に入局後、2年目から聖隷浜松病院、3年目の秋から新潟市民病院で研修しました。研修病院では指導医とともに日々診療することで様々な眼疾患に対して知識、治療法のみならず患者さんや臨床に対する接し方を学びました。研修病院が網膜硝子体手術を積極的に行う病院であったため自然と網膜硝子体疾患を専門とするようになりました。その後5年目からはそれまでの研修の成果を生かし新潟県立中央病院の1人医長として更なる臨床経験を積みました。6年目から新潟大学に戻り15年目の秋まで大学病院で網膜硝子体班に所属し研鑚を積み、15年目の秋から新潟市民病院へ赴任しました。白内障手術のみならず開業医ではなかなか行えない難治性の網膜硝子体疾患を治すことができた時の喜びは勤務医でしか味わえない醍醐味だと感じています。
大学からは常に医局員を派遣していただき年々手術件数は伸びています。器械の導入の際は力添えをいただき設備はかなり整い、当院は硝子体手術を並列で行える新潟県では数少ない病院となりました。派遣されてくる研修医はみな積極的で1年目の終わりには1人で白内障手術を行えるようになります。網膜硝子体手術の基本手技も習得することも可能です。優秀な研修医が多く指導医側が逆に教わることも多いです。また専門外の患者さんが来られてもいつでも大学に相談できてご指導いただける体制が整っており大変助かります。
新潟県は常勤の眼科医がいない病院が多く就職先には困りません。眼科は治療効果は高く患者さんから感謝されることが多くとてもやりがいを感じられます。眼科は専門分野が狭いようでいて他科との連携は多くとても懐が深い科です。専門分野は前眼部から後眼部、眼周囲、視神経と多岐にわたり、その中で自分の専門を自分で選択することができます。どの専門分野を志しても大学よりサポートをしていただけます。安心して入局を決めてください。


新潟県立新発田病院
大矢 佳美

「的確な診断・治療ができるよう、患者さんとの対話を大切にし、丁寧な診療を心がけています!」

皆さん、こんにちは。私は日本医科大学平成4年卒の大矢佳美と申します。卒業と同時に同級生の婚約者の実家がある新潟県に移り住み、新潟大学眼科学教室に入局しました。当時の教授は故岩田和雄名誉教授でした。「研究にはロマンがなくちゃ」「これからはデジタルの時代。見た目ではなく、数値で示さなければダメだ」と教えられました。満91歳で亡くなる3か月前に日本緑内障学会でご講演され、スタンディングオベーションが沸き起こった岩田和雄先生の勇姿は私の理想の医師像となっています。
入局1年目は3か月毎に緑内障、網膜硝子体、角膜感染症の3つの班に配属され、研修しました。2年目には聖隷浜松病院に派遣され、朝早くから夜遅くまで働きました。そこでは、限界まで力を出し切るということを学びました。3年目に新潟に戻って新潟市民病院に勤務し、手術の基礎を教え込まれました。4年目に一人医長を経験し、5年目に大学へ戻り、専門医試験を受けました。
眼科専門医となって一区切りつき、男女二人の子供を授かりました。産前はぎりぎりまで働き、産後8週で常勤医に復職しました。2か月余りの休業でしたから、診療や手術に何ら影響はありませんでした。育児においては、夫と両方の母の協力を得てなんとか乗り切りました。眼科外来の暗室で搾乳し、医局の冷蔵庫に保管しておいて、夜子供に飲ませていた頃は、大変でしたが充実した日々でした。手術や臨床研究に夢中で、家庭を顧みない母親であった時期もありましたが、実母のフォローもあり、子供達との信頼関係は保たれていると信じています。新潟には、「NICE(Niigata Instructive Connection of Eye Doctors)の会」という男女共同参画の講演会と懇親会があります。「レディースサージャンの会」から始まり、手術しない女性医師も参加できるように、「新潟女性眼科医の会」に改名し開催していました。時代の流れで、近年「NICEの会」となりました。
私は9病院の勤務を経験し、そのうち5病院では一人医長でした。病院ですから外傷、網膜剥離、増殖糖尿病網膜症など、重症患者さんが沢山受診されます。治療に困った時はいつでも大学がバックアップして下さるので、安心して勤務医を続けられています。医局の先生方にはとても感謝しています。現在白内障手術は続けているものの、50歳半ばという加齢による衰えを感じ、手術から別の分野へシフトする必要性を感じています。2020年に日本眼科AI学会が立ち上がり、急速にAI活用が進んできました。年を取っても眼科学最前線についていけるよう、目下ITについて勉強中です。
最後に、若い医師の皆さんに一言。新潟大学には一人前の眼科医に育てるプランがしっかりしています。更に専門分野を極めることもできます。是非、理想の医師像を目指してなりたい自分になって頂きたいと思います。